第23話
新田先生と橘葉月は、学校を辞めていた。夏休み明けのことだった。
クラス内はその話題でもちきり.....というほどでもない。各々、夏休みの思い出話で忙しいのだ。しかし、関心が向いているのは明らかで、ふわふわとした噂話がそこかしこでまことしやかに囁かれている。
橘葉月は友達が多く、交友関係はクラスを隔てない。新田も人気の先生であることは間違いなく、体育で顔を合わせる生徒も多い。彼らが同時に学校を辞めたことについて、二人を関連付ける声も少なくないが、あくまで噂のレベルに留まっている。
たまたまじゃん、やめなよそういう噂するの。失礼だよ。
そんな風に窘める声も聞こえる。確かに、偶然なにか事情が重なることは十分あり得るだろう。しかし、もしかしたら噂の火種になるようなきっかけがどこかにあったのかもしれない。
あの二人、結構杜撰なとこあるもんなあ。どこかでぼろを出していないとは言い切れない。
俺は数週間前、橘を見た。俺は妹の七海の付き添いで市民プールに行く途中で、駅の向かい側のホームに彼女はいた。髪型や体型、顔の作りを見ても確かに彼女だったと思うのだが、向こうは俺に気づいていないようで、そのまま到着した電車に乗って去っていった。
やけに暗い顔をしていたのが記憶に残っている。なにか思いつめたような、深刻そうな顔をして、じっと俯いていた。それ以来、橘を見かけたことはない。
俺が知っているのはそれくらいだ。新田先生.....とつい呼びたくなるが、彼はもう先生ではないのか、新田と話をしてからの事の顛末は何も知らない。一連の出来事もおそらく無関係ではないと思うが、それすらも断言はできない。
「橘さん、学校辞めたんだな」
始業式が終わった後。パックジュースを飲みながら、さっそく近藤は件の噂について話を持ち掛けた。休み時間の教室の中では、「葉月」「新田」というワードがちらちらと飛び交っている。
「そうみたいだな」
「お前なんか知らんの?」
「知らん。少なくとも、辞めたことに関してはなんも知らん」
辞めたことに関して、は。ほんの少し含みのあるその言い方に、近藤は繊細にニュアンスを感じ取ってくれたらしい。なるほどね、と頷いた。もっとも、近藤は俺が橘に浮気されたことも知っている訳で、もしかすると何か察してはいるのかもしれない。
わざわざ追及してこないあたり、やはりいい友人だ。
「高校辞めたらどうなるんだろーな。中卒だろ?」
「そうだなあ」
想像がつかないのは、幸せなことだろうか。
「ヤンキー高校とかだとさあ、妊娠して退学とかままあるらしいけど」
「そうだなあ。まあでも、どうにかなるんじゃないか」
知らんけど。そう、本当に知る由もない。きっとこれから、橘に会うことはないのだろう。
「俺もジュース買ってこようかな」
授業が始まるまで、あと少し時間はある。俺は席を立った。
体に染みついている慣れを理性で遂行するように、どこか不自然な感覚を覚えながら廊下を歩く。夏休み明けはいつもこうだ。今年の夏は、俺を取り巻く環境が大きく変わったような気がする。それでもこうして学校に来てみれば、案外何気ない日常なのだった。
九月に入ると暑さは急に収まり、残暑なんて言葉も今年はしっくりこない。教室は冷房がかかってあるが、廊下に出ても熱気は不快なほどではなかった。
「今坂君」
呼び止められて、振り向く。声の主は、いつか会話を交わした、ポニーテールの女子生徒だった。あのときは橘もその場にいた。
「よっす。どっか行くの?」
「自販機で何か買おうと思って」
「ふーん、あたしもついていこっかな」
俺の返答を聞かないまま、彼女は勝手についてくる。
「ねえ、葉月のこと、なんか聞いてない?」
案の定、その話題か。彼女は橘と同じ部活だったはずだ。俺は自販機に小銭を入れながら、彼女に問う。
「なんで俺に聞くんだ?」
「なんでって.....なんというか」
彼女は壁にもたれながら、視線をふらふらとさまよわせる。少し口ごもって、違ってたらごめん、と前置きし、
「今坂君、去年葉月と付き合ってなかった?」
ジュースを選んでいた指が、一瞬止まる。俺の露骨な動揺に、彼女は焦った様子でポニーテールをぶんぶん揺らした。
「な、なんかごめんね、勝手に.....」
「いや、いいよ別に。てか、バレてたんだ」
「あ、ほんとなんだ」
「うん。まあ」
ポニーテールの彼女は、カールした毛先をいじりながら寂しげに笑う。
「あの子、結構単純なとこあるっていうかさ。わりと隠し事とか苦手な感じだよね。なんとなく話しててさ、おや?って思う部分もあったり、そう思えば露骨に隠してる部分もあったり。だからちょっとだけ、噂にはなってたかも」
「俺と付き合ってるって?」
「うん。まあでも本人が隠したがってるみたいだから、別に問いただすみたいなことはしなかったけどね、一応」
全身の力が抜けるような感覚がする。隠し通していると思い込んでいた自分が滑稽だ。確かに、橘はそういうところがある。浮気が俺にバレるくらいなのだから、そりゃ付き合っていることくらいバレていてもおかしくはないだろう。
「付き合ってたのは事実だけど、別れたのは今年の五月なんだ。だから、夏休み中になにがあったかはよく分からない。そっちでも、何か連絡とかは来てないの?」
彼女は静かに首を振った。
「何も。他の仲良かった子にも聞いてるんだけど、誰も何も聞いてないって」
「そうなのか」
俺はカフェオレのボタンを押した。取り出し口に転がり出たペットボトルを、屈んで取る。
「心配だなあ。変なことに巻き込まれてなきゃいいけど。悪い子じゃないんだけどさ、流されやすいから、あの子。何でなんも言ってくれなかったんだろう」
仲いいと思ってたのになー。そんな風にぼやきながら、彼女は財布から小銭を出す。なにか買うらしい。
「そういや、白波瀬さんは何か知ってるかな?」
突然登場した白波瀬の名前に、俺は驚いてペットボトルを落としそうになる。どうにかキャッチし、
「し、白波瀬?なんで?」
彼女は買ったばかりの緑茶の蓋を開けながら、軽くため息をついた。これも噂なんだけどね。どこか疲れたようにそう言って、
「夏休みの前にさ、プールの横で新田先生と葉月と、あと今坂君と白波瀬さんの四人がなんか、喧嘩?みたいなことになってるのを見た人がいるんだってさ。本当かどうかは分からないけど、でももし本当なら、葉月が学校辞めたこととなにか関係あるのかなーって」
彼女は緑茶を一口飲んで、俺の方を一瞥した。
答えにくい質問だった。無関係、とは言い切れない。ただ、事のあらましを丁寧に説明したところで、結局橘がいなくなった理由がはっきりするわけでもない。
俺はペットボトルに巻き付けられたビニールを指先でいじりながら、どう返答したらいいものか、考える。やはり壁に耳あり、障子に目あり。学校という場所は、思ったより隠し事に向かないようだ。
俺はカフェオレを口に含み、ふっと息をついた。
「ちょっとした.....ちょっとしたトラブルがあったのは事実だよ。ただ、内容は、その、」
「ああ、言いたくないなら無理に言う必要はないよ?」
「ありがとう。まあとにかく、トラブルがあったんだ。それと今起こっていることが、もしかしたらいくらか関連性はあるかもしれない。ただ、詳しいことは俺もよく分からない。夏休み中に何があったか知らないっていうのは、本当のことだ。だから、はっきりしたことは何も言えない、という感じかな」
「そっかあ。今坂君も知らないかあ。白波瀬さんも?」
俺は苦笑した。
「白波瀬はさらに無関係だよ。あのときは俺が巻き込んでしまっただけで、あいつは橘の事情については何も知らないと思う」
「今坂君が巻き込んだ?.....ああ、今坂君、確か白波瀬さんと小学校からずっと同じなんだよね」
「よく知ってるな」
「うん。ちょっと友達から聞いたんだ」
予鈴が鳴った。五分後に授業が始まる。授業と言っても、初日なのだから課題を提出する程度だが、遅れていい理由にはならない。そろそろ戻ろうか、と声を掛けて、俺たちは歩き出した。
「白波瀬さんって、どんな人?」
隣を歩く彼女が、俺に聞く。白波瀬は相変わらずクラスの中では浮いた存在だ。教室は違うが、白波瀬の人となりについて彼女も気になるのだろう。
俺は考える。どんな人、かあ。可愛いとか綺麗とか、こんなところで馬鹿みたいに惚気るわけにもいかないので、ちょっと真剣に考えてみる。
考えた結果。
「うーん。意外と普通.....かな」
「普通なんだ」
「うん。なんというか、人見知りなんだと思う」
「へえ」
付き合っているとは思えない、無難な回答をしてしまった。別に、カップル丸出しで答えたかったわけでもないんだけどさ。
「話してみると楽しい.....かもしれない。保障はできない」
「今坂君は楽しいんだ?」
いたずらっぽい笑みに、全てを見透かされている気がしてどきっとしてしまう。ううん、と肯定とも否定ともつかない曖昧な俺の返事に、彼女はくす、と小さく笑った。
「今度、白波瀬さんに話しかけてみようかな」
じゃあね、とゆるゆる手を振って、彼女は教室に帰っていった。
その日の帰り、白波瀬と二人で電車に乗っているときであった。
「ねえ、休み時間」
隣に座る白波瀬はぽつりとそれだけこぼして、だんまりと口をつぐむ。
まったく要領がつかめない。俺は休み時間ではありません、とツッコむべきなのだろうか。頭を悩ませていると、
「女の子と、喋ってたでしょ」
合点がいく。
「見てたのか」
「ま、まあ.....」
今日の白波瀬はなにか様子がおかしい。形のいい眉をきゅっと寄せて、口元もむっと突き出している。頑なに合わせない視線と言い、鈍い反応と言い、まるで拗ねているような.....。
俺の中でぴんとひらめいた。
「もしかして、嫉妬?」
「ちちち違うわよ!?」
白波瀬のあげた大声が車内に響き渡り、ほんの一瞬、彼女は注目の的となる。彼女は慌てて口を押さえ、恨めしげに俺の方を睨んだ。そこまで勢いよく否定しなくとも.....。
「その、橘さんの話してたのかなって思っただけ。それだけよ、断じてね」
「お、おう。断じてそうなのか」
交友関係の薄い白波瀬でも、やはり噂は耳にしているみたいだ。どうやら喧嘩、と解釈されているらしいあの場にいた一人なのだから、気にもなるだろう。事情もいくらか知っているわけだし。
「まあ、忘れ.....なくてもいいかもしれんが、俺たちは俺たちでやっていくしかないよな。あれはもう、あの二人の問題なんだから」
「そうね。ええ、そう思う」
「俺はでも、結果的にし、み、白波瀬と一緒になれたわけだから、」
「シミ?」
「白波瀬」
「いま名前で呼ぼうとしたの?」
思ったよりも高いハードルに怖気づいて挫折したことに、即座に気づかれてしまった。白波瀬は顔を背ける俺にくすくすと鈴の転がるような笑い声をあげ、
「でも、ありがとね、たs.....今坂」
「お前も無理なんじゃねえか」
***
二学期になっても、俺と白波瀬は一緒に下校している。二人とも部活には入っていないし、電車も一駅違いだ。並んで電車に揺られる時間は、俺にとって至福のひと時だった。
「お前さあ、まだ白波瀬さんとその、”用事”とやらが続いてんの?」
近藤は呆れ交じりにそう言った。そういや、なんだかそんな言い訳をしていた気がする。別に当時は嘘でもなんでもなかったのだが。
俺は迷った末、いいや、と首を振った。
「用事はもうない」
「でも一緒に帰るんだな」
「そういうことだ」
近藤はわざとらしく肩をすくめた。にやにやしながらもつまらなさそうな、微妙な顔をしている。
「やっぱり幼馴染はいいんじゃないか」
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