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第16話

 白波瀬の家は、駅から歩いて約五分。人気のない住宅街に、そのマンションは建っていた。無機質なそれは、周りの住宅を威圧するようにそびえたっている。


 人の温かみをまるで感じない、どこか不気味な通りだ。おそらく絶え間なく降り続てる雨のせいではない。きっとここは晴れの日でも薄暗いのだろう。俺は白波瀬の背を追いながら、ぼんやりとそう思った。


 エントランスに入って、俺は感嘆のため息をつく。綺麗な場所だ。シンプルだが品のある、洗練されたデザインには、どことなく高級感が漂っている。ずぶ濡れのみっともない俺の姿がここには場違いで、少し居心地が悪かった。


 乗り込んだエレベーターで、白波瀬は最上階のボタンを押した。かったるい体に、浮遊感がのしかかる。傘から流れ落ちた水滴が、床に小さいシミを作った。


「ここよ」


 白波瀬が指し示した部屋は、角部屋だった。


「傘、適当にそこに置いといていいから」


 そう言って、白波瀬は重そうな玄関扉を開ける。


 俺はと言うと、ここにきて若干の躊躇いが生まれてしまった。何も考えずにほいほいついてきてしまったが、俺は今同級生の女子の家に入ろうとしているのだ。雨の中で鈍っていた思考が、途端に明瞭さを取り戻す。本当にいいのか?


「何してるの。風邪ひくわよ」


 玄関前でまごつく俺に、既に靴を脱いだ白波瀬が振り返って言う。雨に降られて風邪をひく。そんなアニメのような単純な体をしているものか。しかし実際問題、じっとしていると服がぴったり張り付いた背中に、ぞくぞくと悪寒が走る。濡れた体の不愉快さに負けて、俺は白波瀬家に足を踏み入れた。


 幼かったあの頃、俺は彼女に家族の話をよくしていた。休日のドライブの話だとか、妹のしでかしたいたずらの話だとか。楽しそうに聞いてくれるので、つい一方的に話してばかりいたが、そういや彼女の家の話は結局聞けずじまいだ。俺は彼女の家族構成も、家の場所さえも知らなかった。


 こうして数年後、成り行きとはいえ彼女の家を訪れることになるとは、夢にも思うまい。


 薄暗いその部屋に入ると、落ち着いた香りが俺を迎え入れた。うちでは嗅ぐことのない、ちゃんとした感じの匂い.....。知識が乏しく、ふんわりとした感想しか浮かばない。


 白波瀬の脱いだ靴の横に、一応揃えて置いておく。並んでいる靴は、俺たちが脱いだ二足だけだ。ほかのものは見当たらない。スニーカーやら長靴やら革靴やら、乱雑と置かれている我が家とは大違いだ。


 ふとその場を見回すと、物の少なさに気づく。玄関横の白い収納棚の上には、白波瀬がさっき置いた鍵のみ。我が家にあるような、妹が学校で拵えてきたよくわからない工作などは、一つも置かれていない。インテリアを大事にしているのだなあ。俺は感心して、その場をあとにした。


 部屋はいくつかあるようだ。白波瀬に続いてつきあたりの部屋に入ると、そこはどうやらリビングらしい。左手にあるのはカウンターキッチン。そしてその正面に、壁沿いに置かれているテレビ、その向かいにはソファー。ソファーには白波瀬のものだろうか、白いロングスカートがくしゃっと丸められていて、彼女は慌ててそれを回収した。


 しかし、目に見えて分かるだらしなさはそれくらいだ。この世に生を受けて十七年。幾度となく他人の家にお邪魔したが、こんな家は初めてだった。


 ここは総じて清潔だ。物はやっぱり少なく、生活感が皆無.....なわけでもないのだが、どこかミニチュアの家を眺めているような不思議な感覚がする。一人で住むにはいくらなんでも広すぎる部屋だが、白波瀬以外の人間が生活している痕跡は見当たらない。


 ドラマのセットみたいだな。浮かんだ印象をまとめるとそんな感じだ。


 だからだろうか。他人の生活圏に侵入する気まずさは、湧きあがってこなかった。俺は白波瀬に、ずっと気になっていた質問を投げかける。


「いつ引っ越ししたんだ?」


 なぜ引っ越ししたと分かるのか。そんな疑問が彼女の顔に浮かんだ。


「ここ、小学校の校区内じゃないだろ」


「ああ.....」


 白波瀬は頷いた。


「中学に上がるときにね、ここに引っ越したの。中学はここも校区内でしょ?」


 確かにそうだ。俺たちが通っていた中学校は、ちょうど俺の家と白波瀬の家の中間の場所にある。


 彼女はいつの間にか持っていたバスタオルを俺に投げた。


「バスルームは、この部屋を出て右。早くシャワー浴びた方がいいわよ」


 思わず受け取ったそれは新品なのか、手触りがふわふわしている。


「白波瀬が先に入ればいいじゃないか」


「いいのよ、私は。一応あなたはお客さんなんだから、遠慮する必要はないわ」


 そうは言っても、濡れた女の子を前に一人シャワーを浴びるのは気が引ける。.....一緒にシャワーを浴びるとか?思いついた考えを、慌てて打ち消す。死にたいのか、俺は。


 まあ、いい。こんなところで言い合いをするのが最も時間の無駄だ。お言葉に甘えて先に浴びさせてもらうことにする。


 バスタオルを抱えてリビングを出た俺の後ろで、


「服、私のでいい?」


「.....白波瀬の服?」


「ええ。濡れた服着るわけにもいかないでしょ?オーバーサイズの、いくつか持ってるからそれでいいかしら」


「入るかな」


「入るわよ。あなた割と細いんだし」


 シミひとつない真っ白な洗面所には、化粧水やら乳液やら、化粧品がずらりと並んでいる。きっと白波瀬のものなのだろう。急に増した生活感に、俺は安心感を覚える。


 クリアな鏡に写る俺は、病人のような青白い顔をしていた。そのままゾンビ映画に出演できそうな風貌だ。自分でもぞっとした。白波瀬がシャワーを促したのも、この見た目じゃ頷ける。


 こんな状況でもどぎまぎせずにいられるのは、白波瀬が冷静でいてくれるからだ。複雑な思いがないでもないが.....。せっかくの好意なのだから、よこしまなことはあまり考えたくない。俺はそう思い、濡れた服を脱いだ。

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