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第15話

 昨日の夜から降り出した雨は、今朝になると格段に雨脚を強め、傘をさしているとまるで雨のヴェールに包まれているみたいだ。それでもまだ傘はその役割を果たしてくれていて、濡れているのはせいぜい靴下くらい。ピークはこれから来ると言うので、怖いものだ。帰りの電車は動いてくれるだろうか。


 七月も半分を超え、雨はもはや冷気を運んではくれない。ただ不快さが増すのみだ。じめじめと蒸す空気の中、俺は市民プールの入り口で水滴のついたビニール傘を丸めた。


 時計を見ると、待ち合わせの時間よりも大分早くに着いた。予定通りだ。俺は白波瀬を待つつもりだったのだ。そして、彼女の顔を見ると同時に頭を下げて、謝りたかった。


 昨日の夜から、俺が彼女にぶつけた言葉を反芻してはため息をついている。放っといてくれ、だと?勝手に巻き込んだくせに、なんて言い草だ。薄暗い公園に響いた自分の声が、まだ鼓膜に焼き付いて離れない。


 傘の水滴に濡れた指先をシャツで拭い、少し湿ってうねる髪を手のひらで抑えながら、更衣室の方へ向かう。と、すでに彼女はいた。


 嘘だろ、待ち合わせより三十分以上前だぞ。


 更衣室の前のソファーに、その姿はあった。


 小花柄のワンピースを纏った白波瀬は、こちらにはまだ気づいていないようで、カバンをわきに置いてスマホを眺めている。いつものラフな格好に比べ、今日はなんだか上品な雰囲気だ。お嬢さん、と言った感じ。


 想定していなかった事態に少々面食らい、俺は考えていた言葉も忘れて立ちすくむ。そうしている間に、向こうは俺に気づいたようで、スマホをしまって立ち上がった。


 こちらに向かう白波瀬に、俺は頭を懸命に働かせ、取るべき行動を引っ張り出す。


 ああそうだ、謝罪、謝罪をまず.....。


「あの、昨日は.....」


「練習」


「え?」


「テストの練習、しましょう」


 そう言って、白波瀬はすたすたと女子更衣室の方へ歩いて行った。俺は、あっはい、と聞かせる気のない返事をもごもごと返すのみで、だめだ、完全に謝罪する隙を見いだせなかった。


 怒っているだろうか。ガチギレだろうか。しかし、言葉少なに、表情も硬く、それでも怒りのエネルギーはあまり感じなかった。普段彼女が怒るときは、もっと極限まで昂った熱を制御しきれず、言葉や暴力という形になってにじみ出てくるような、そういう感じだ。


 今日の彼女は、ぎくしゃくした振る舞いに自分でもどこか戸惑っている、そんな風に見えた。


 練習を始めても、ぎこちない雰囲気は拭いきれなかった。むしろ悪化していると言っていい。白波瀬はいつものように俺に突っかかってこないし、そうすると俺も会話の糸口を見つけられない。


 プールは、案の定、というべきか、がらがらだった。俺たちが練習を始めた頃にはかろうじていた爺さんも、早々に上がってしまい、もはや貸し切り状態だ。プールの横に設置されている簡易的なジムコーナーにはまだいくらか人がいたが、流石にこんな雨の中わざわざ泳ぎに来るようなもの好きはそういないのだろう。


 人いないな、とか貸し切り状態だな、とか、きっと今までなら息を吐くようにできていた会話も、今は喉が固くなって言うことを聞かない。


 雨粒がガラスを打つ轟音に、スピーカーから流れる一昔前のポップス。そのほかは水飛沫の微かな音のみが聞こえていた。


 白波瀬の泳ぎは、もう申し分ないものになっていた。練習を始めて約一か月。ぎこちないところもなくはないけれど、十分お手本になり得るきれいな仕上がりだ。滑らかに進むその姿は見ていて気持ちが良い。テストでも、A評価は難しくとも、見学に徹していたことを決して咎められはしないだろう。


 一周泳いでこちらに戻ってきた白波瀬が、水面から顔を上げた。もはやなにも言うことがない。先生としての役割ももう終わりだ。


「.....そろそろ休憩したら」


 息の荒い白波瀬にそう言うと、彼女は無言で頷いてプールサイドに上がった。入れ違うように、俺はプールへ入る。指導もせず見ているだけなら、プールに来た意味がないし、なにより白波瀬と隣り合って無言の時間を過ごすのも気まずかった。


 開口一番謝罪しようとしていたあの気概はどこへやら。いざ共に過ごすと、すっかり臆病になってしまった。泳いでいても気は晴れない。向こう岸に着くと、そのままターンせずに振り返り、遠くなった白波瀬を見る。


 白波瀬はベンチに体を預け、どこか遠くの方を見ている。体を休ませていても、だらしなく見えないのは才能だと思う。きれいだな、とただ素直に感じた。


 改めて見ると、やっぱり白波瀬は美人だ。精緻な人形のようでいて、どこか儚げでもある。まるで映画の中のヒロインだ。周りの風景を、彼女の物語の背景に変えてしまうような魔力を持っている。


 触れれば消えてしまいそうな白い肌も、長いのに不思議と重さを感じさせない黒い髪も、豊満さと儚さを両立させる不思議な体型も、どこか人間離れしていて近づきがたい雰囲気を感じさせる。


 俺は何故、この女の子と水泳の練習なんてして平静でいられたのだろう。そんな素朴な疑問がどこからともなく湧いてきた。彼女と上手く会話が交わせなくなって、俺は初めて一歩引いて状況を見つめる。


 水着姿の美少女と二人きりで練習をする、ただのどこにいる男子高校生の俺。不思議な関係を当たり前のように続けたこの一か月は、思い返せばなかなか充実したものだった。練習をしているときはそんなこと意識していなかったけれど。


 俺は、白波瀬と共にいることを何も疑わなかった。疑う余地がないほど、彼女はいつの間にか俺の中に入り込んでいたのだ。


 俺は壁を蹴って、白波瀬のいるプールサイドを目指した。この一か月が思い出に変わっていく。思い出と言うラベルが貼られた過去は、即座にきらめきを増し、俺の後悔はどんどん質量を増していく。


 謝ろう。再びそう決意し、プールサイドに手をついた。


「ねえ」


 頭を上げると、プールサイドの際に立った白波瀬が俺のことを見下ろしている。俺は反射的に顔を逸らす。単純にきまずい、以上に水着の女子を下から見上げるのはなんだかこう、良くないアングルだったので、仕方がない。


「私、どう思う」


「.....どう?」


「泳ぎ」


「ああ、うん。テストは多分大丈夫だと思う」


「そうなのね」


「うん」


「じゃあもう帰りましょ」


 俺は一瞬詰まり、思わずもう一度白波瀬を見上げる。そしてやっぱり目を逸らす。あっけらかんとしたその言い方に、動揺してしまった。やはりこんな居心地の悪い場所に身を置きたくはないだろう。


 俺は頷いて、プールから体を持ち上げる。白波瀬は俺に背を向け、無言で女子更衣室の方へ歩いて行ってしまった。


 なるほど、理解した。完全に白波瀬は俺に愛想をつかしたのだ。もう怒る気すら起きない、そういうことだ。練習のために仕方なく俺をここに連れてきたが、合格の基準に達したのなら、俺は用済み。あざした。.....そういうことだ。


 謝っても無駄かもしれない。それでも、着替えたらちゃんと自分の気持ちを伝えよう。


 俺は肩を落として更衣室に向かった。


「はい、これ」


 着替えを済ませた俺の顔に突き付けられたのは、黒い塊だった。正確には黒く平べったい塊がいくつか入った透明な袋。なんだこれ。


 男子更衣室から出たばかりの俺に、先に着替えを済ませていた白波瀬は手に持っていた何かを差し出した。はいこれ、と言われても、これが何だか分からない。


 謝罪する気満々だった俺は、さっそく出鼻をくじかれ、予定していた謝罪文句もどこかへ飛んで行った。白波瀬は急かすように、謎の袋をふりふり揺らす。不機嫌そうなつんとした顔は、静かだった先ほどと打って変わって、いつもの彼女に見える。


 俺はおずおずと差し出されたそれを受け取る。持った感じは意外と軽く、黒い塊は少してかてかしていて.....なんの素材でできてるんだろう、これ。


「その、これは.....なんだ?」


 俺の疑問に、白波瀬は目を大きく見開く。


「何って、クッキーに決まってるじゃない!」


 クッキー?これが?この鉛筆の芯の部分を平べったく固めたようなものが?


「そ、そりゃ確かにちょっと失敗しちゃったけれど、これでもまだましなのを選んでて.....」


 これも大概だが、これ以上ひどくなったものはもはや食べ物じゃない。


「諦めて市販のもの買おうと思ったんだけど、近くのケーキ屋さんは定休日で.....」


「ちょ、ちょっと待て」


 必死に弁解を続ける白波瀬を止める。そもそも、


「なんで俺にクッキー?」


 俺は白波瀬に謝るつもりでここに来た。罵倒も無視も自業自得と受け入れるつもりだった。そう心に決めて更衣室のドアを開けたら、クッキーを渡された。意味が分からない。これも何か、彼女なりの意趣返しの一環なのだろうか。


 白波瀬は不満げにむっと唇を突き出した。


「なんでって、そんなのお礼に決まってるじゃない。あのねえ、私にだって感謝の心くらいはあるわ。これだけつきっきりで水泳を教えてもらって、まあそれ以外にも.....色々、してもらって。それで何にもなしなんて、そんな恩知らずじゃないわ。クッキーが焦げたのは.....それは本当に申し訳ないけど、あまりにも不味かったらそっちで勝手に処分してちょうだい」


 上手く言葉を返せなかった。俺の呆然とした様子を違う風に受け取ったのか、白波瀬の顔がさあっと曇る。


「ねえ、今坂、もしかしてまだ怒ってる.....?」


 怒ってる?俺が?


「.....なんでそうなる」


 白波瀬は目を伏せた。


「私が昨日、ひどいこと言っちゃったから.....」


 はあ?と思わず声に出た。それが高圧的に聞こえてしまったらしい。怯えた顔のまま固まってしまった白波瀬に、俺は慌てて顔の前で手を振る。


「あいや、そうじゃなくて。むしろひどいことを言ったのは俺だろう。白波瀬に八つ当たりして、最低なことを言った。本当に後悔している。俺は今日白波瀬に謝るつもりでここに来たんだよ。白波瀬は正しいことを言ったまでだ。怒るべきなのは白波瀬の方だろう」


 白波瀬はぽかんと口を半開きにしている。


「じゃ、じゃあ今坂は怒ってないの.....?」


「なんで俺が怒るんだよ」


 俺がそう言うと、白波瀬は張り詰めていた糸が切れたように、全身からへにゃりと力が抜けた。めずらしく猫背。身長が縮んだのかと錯覚するほどだ。胸に手を当て、ほお、と大きく息をついた。


「今日口数が少ないから、キレてるのかと思ったじゃない.....」


 どっちのセリフだ。


 全身緩み切った白波瀬もつかの間、すぐにしゃんと姿勢を戻し、


「さっさと帰りましょう。急げば雨もまだましなうちに帰れるかも」


 毅然とそう言い、出口へ向かう。


 プールを早めに上がったのも、決して怒っているからではなく、雨のことを考えての行動だったらしい。


 外へ出ると、雨は先ほどの比ではない。それ以外の音を吸収し、耳に押し寄せてくる雨、雨、雨。視界はモザイクがかかったようにぼやけて、明瞭ではない。軒下にいても細かい雨粒が飛んできて、俺は濡れた脛を片方の足で擦った。


 俺は丸めた傘を解きながら、声を張り上げて白波瀬に謝った。そういや、ごめん、と口に出していないことに気づいたのだ。白波瀬は俺の声を聞き取ったようだが、別に否定はしなかった。こくりと頷き、口の形は「わかった」と動いた。


 案の定、傘はあってもなくても同じようだ。駅までの道のりで、服は肌に張り付き、靴の中では洪水が起き、髪から絶え間なく垂れる水滴で目が痛い。白波瀬も同じような格好をしている。しかし、彼女はなぜこんな大雨の日にワンピースで外出してしまったのか、理解に苦しむ。似合ってるけどさ。


 意味をなさない傘をそれでも握りしめ、駅に着いた頃には、二人そろって、頭の上からバケツをひっくり返されてもこうはならないだろう、というような様相を呈していた。


「終わった.....」


 俺の言葉に、帰路に着こうとしていた白波瀬は振り返ってこちらを見る。電光掲示板を流れるのは、運転取りやめの赤い文字。予想、していなくもなかったけれど。


「へっくしょい」


 雨にさらされている間は意識していなかった、寒さ、不愉快さ、だるさ。水が体力を奪うのは、プールも大雨も同じことだった。


 俺の家はここから一駅。遠い距離ではないが、この雨の中徒歩で帰るのは現実的ではない。


「ねえ」


 同じようにぼとぼとに濡れた白波瀬は、顔に着いた水滴を鬱陶しそうに払った後、遠慮がちに言った。


「うち、来る?」

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