第14話
一か月ぶりに、例のツーショット写真を見た。見ないようにしていたのだ。今まで。
汗ばんでテカった顔と、ぼさぼさの髪。二人仲良く乱れた服装で、しどけない様子からはむんと甘ったるい香りが匂ってくるようだ。気持ち悪い。
スマホの写真をじかにカメラで撮った、鮮明とは言えないこの写真が、嘘であればよかった。すべて俺の妄想で、今確認すればあんな写真は消えていて、なあんだ最初からそんなものなかったんじゃないか。.....そんな淡い期待は、いとも簡単に打ち砕かれた。
写真フォルダを開けば、当たり前のように証拠写真が姿を見せる。純然たる事実だった。
この写真を眼前に突き付け、どういうつもりだ、と問い詰めるべきだったのだろう。けれどそうしなかった。俺は、ひたすらに見ないふりをした。現実から逃げていた。
受け入れられなかったのだ。信頼していた教師の、情けない姿を。倫理に反する行いを。どうしても向き合うことができなかった。
俺は、感情をぶつけるのが怖かった。俺のぶつけた感情が波紋を生み、取り巻く世界が揺れてしまうことが何より怖かった。黙っていれば、なにもかも有耶無耶になると思いたかった。
その結果、これだ。
関係のない他人に八つ当たりし、泣かせた。最悪。
「うはあ、最悪ぅ~」
ソファーに寝転んでテレビを眺めていた妹、七海が突然声を上げる。食卓で夕飯を食べていた俺は、視線を上げる。テレビでは明日の天気が報じられていた。
「明日、大雨だってー。やだなあ、友達と遊びに行く約束してたのにい」
液晶に表示されている簡易的な地図に、傘のマークが並んでいる。それも、なかなかの量が降るらしい。画面の中の男性キャスターは、交通への影響を示唆していた。
「あーら、明日雨なんだ」
食後の緑茶を嗜んでいた母親も会話に加わり、母娘は明日の外出の是非について、口論を交わし始めた。七海は断固として出かけたい。母親が言うには、危険だからやめなさい、というわけだ。まあ七海はまだ小学生だものな。
女子同士のうにゃうにゃした話を適当に聞き流しながら、ハンバーグをつっついていると、
「おにーちゃんは明日どうするの?」
いきなり話を振られ、慌てて咀嚼中の豚肉を飲み込む。
「な、なんのこと?」
「いや、お兄ちゃんは明日もその、アレでしょ?最近恒例の、彼女サンとの市民プールでの逢引.....」
「だからちげえって!」
俺の必死の抵抗も、七海は聞き入れる気配がない。ガキ臭さ漂うにやにや顔で、さらなる追撃を開始する。
「ええ?だって、前練習で一緒に行ったときにさ、話してた女の子なんでしょ?あそこでナンパして、それからずっとデートしてるんじゃないの?だってお兄ちゃんももう高校二年生だよ?彼女の一人や二人くらい.....」
「七海、いい加減にしなさい」
母親はぴしゃりと言う。窘められた七海は、話したりなさそうに口をむぐむぐ動かしながらも、一応は黙った。母親、ナイス。俺は味噌汁を啜った。
七海の様子に満足げに頷いた母親は、さて、とでも言うように顔をころりと明るくし、
「んで?結局彼女なの?付き合ってるの?デートなの?どうなの?」
何のために七海を窘めたんだよ、あんたは。自分が問いただしたかっただけか?好奇心丸出しのぴかぴか光る顔を軽く睨みながら、
「だから、違うって言ってるだろ。テストが近いから、水泳の練習に付き合ってるだけなんだって。友達もあんまいないみたいだし、頼めるのが俺くらいしかいないんだとよ」
ふうん、と鈍い反応だ。もっとも、このくだりはここ一か月で数回ほど繰り返しているので、そもそもここにいる誰も本気で詮索するつもりはないのだろう。面倒なじゃれあいだった。
「そいで、その娘ってのは、ほらあの、あんたが小学生の時に仲良かった.....シラセちゃん?」
「白波瀬な」
「そうシラハセちゃんなんでしょ?」
「まあそうだけど。たまたま同じ高校に進学したみたいで」
母親は昔を思い出すかのように、宙をぼんやり眺め、
「あんた、当時やたら嬉しそうに話してたもんナ、白波瀬ちゃんのこと」
「.....そうだっけ?」
「そうだよ。クラスの怖がられてる子と友達になれたーってな。エピソードは色々聞かせてもらったぜ」
そうだったのか。白波瀬との思い出は、俺の胸の中に懇切大事にしまっていた宝石のようなもの.....だとずっと思っていたけれど、当時の俺は意外にもべらべらと見せびらかしていたらしい。拍子抜けする一方、まあ小二なんて普通そうか。
「んーで、どうすんのお兄ちゃん。明日雨すごいらしいけど」
冷凍庫からアイスを取り出した七海が、話に割り込んでくる。
「お兄ちゃんが行くなら、あたしも出かけるけど」
「だーめ」
母親は緑茶の入ったコップを揺らしながら、頑として態度は崩さない。
「お兄ちゃんは、たとえ道路が冠水しても自力で帰ってこられるけど、七海は無理でしょ?」
俺は道路が冠水しても自力で帰ってこられるらしい。本当?
「明日どうするかは、向こうと相談して決めるよ」
コップに残っていたお茶を一気に飲み干して、俺は立ち上がった。小さく、しかし母親には確実に聞こえる声で、ごちそうさま、と言い、自室に向かう。
ベッドにダイブすると、スマホを手繰り寄せ、メッセージアプリを開いた。あんな風に理不尽に怒鳴りつけた手前、連絡するのは気が引けた。白波瀬、という清廉さ漂う文字面が今は胸に影を落とすのみだ。
怒っているだろうな。当然だ。俺の顔なんて見たくないだろう。
明日練習しなくとも、テストの結果はそう変わらない。そもそも俺がついてやる必要性ももうない。だから、きっと白波瀬は断るだろう。断られたら、きっともうそれっきりだ。
それでもいい。いやよくはないけれど、ただ俺は白波瀬に謝りたかった。たとえ突っぱねられるとしても、白波瀬とのこの一か月間をなかったことにはできない。
『今日のことは本当にごめん。明日は大雨みたいですが、練習どうしますか』
何もなかったかのように振舞うのも気が引けるので、敬語を使ってしまった。でもこれはこれで気持ち悪いだろうか。流石にこれで謝罪が済むわけないので、できれば対面で謝りたい。
目をつぶり、大きく息を吸ってから、送信ボタンを押す。直後に既読がついた。
白波瀬もちょうど明日のことを聞こうと思っていたのだろうか。
俺はスマホをわきに置いて、天井を見つめた。真っ白なそれをただぼうっと見ていると、しだいに体は重くなってくる。ベッドに身を委ねたまま、今日の出来事を切り取って、映像を見るかの如く思い浮かべ、暗澹たる思いは体の中へ分散していく.....と、スマホが震えているのに気づいた。
白波瀬からの返信、かと思えばそうではない。相手が白波瀬なのは変わりないのだが、彼女は俺に電話をかけていた。
「は、はい。今坂ですが」
「ねえ、明日行くから」
「え?」
「私、明日行くから。だから.....今坂も来て」
そう言って、電話はぷつりと切れた。突然の通話だった。そういや謝ってないや、と気づくが、しかし電話の向こうの白波瀬は怒り心頭、という風でもなかったような気がする。
電話越しの白波瀬の声が、頭の中で何度も響く。固く目を閉じていると、いつの間にか窓にぽうぽつとしずくの打つ音が鳴り始めていた。




