第13話
ちょうど職員室から帰ってきたところなのだろう。新田はファイルを手にして、俺の後ろに立っていた。いつもの穏やかな面影は薄れ、隠しきれない困惑が硬い表情から滲んでいる。
「今、なんて.....」
唾をのむのに合わせ、喉ぼとけがこくりと動くのが見えた。威厳がない.....のはいつも通りだが、今の彼はもはや生徒の前に立つ者の顔をしていない。目の前にいるのは、ただの顔色の悪い、二十歳そこらの青年だった。
それでも、まだ自分の教師と言う立場を理解はしているのか、感情を抑えられているのはさすが年上といったところだ。
俺の向かいにいる橘に至っては、狼狽を隠す余裕は完全に消失したらしい。黒く大きい瞳はせわしなく動き、顔色も赤くなったかと思えば青くなったり。口を開いては、何も言わずに閉じてのその繰り返し。
やっと何かを発したかと思えば、
「い、いつからそこに.....」
かすれた声で、そう絞り出した。
しかし新田はそれには答えず、俺の方を揺れる瞳でじっと見る。
「佐、なあ最近まで橘と付き合ってたって、それは.....」
.....教師がそんなこと知ってどうするんですか。
数か月前までは確かに慕っていた教師の、何かを乞うような震える声に、俺は胸の芯が冷たくなるのを感じた。
俺が新田から目をそらすと、彼はひどくショックを受けたように体を震わせた。
部活動生もいないテスト前の放課後、体育館の横の薄暗い通り道には俺達以外いなかった。重苦しい空気の中、セミだけが変わらず鳴き続けている。生徒でも先生でも誰でもいい。誰かここに乱入して、全てをうやむやにはしてくれないだろうか。
突然、裾をちょいちょい、とつままれた。横を見ると、白波瀬が俺に強烈な視線を向けている。事情の知らない彼女も、流石にこの異様な雰囲気に気づいているのだろう。どういう状況なのか説明しなさいよ。険しい表情から、そんなメッセージが読み取れた。
白波瀬をこんな状況に巻き込んでしまったことが何より申し訳ない。
「.....なあ、佐はもしかして、橘と」
新田は誰に言うでもなく、揺らぐ声を地面にぽとぽとと落とし続ける。
「ち、ちがうんです」
声を発したのは橘だった。
三人の視線は橘に集中する。未だ呼吸は浅く、落ち着きは取り戻せていない橘だが、それでも窮地の中、事態の挽回を目論んだらしい。新田の方を向き、からからに乾いて上ずった声で、弁解を始める。
「わたしは、今坂君と最近まで付き合ってました」
俺の心臓が騒ぎ出す。新田の顔を見る事ができない。
最近まで俺と橘が付き合っていた。その情報に新田がショックを受けるということは、きっと彼は決して短くない時間を、橘と共に.....。
修羅場だった。各々の感情の濁りがここらいっぺんに流れ出ているようだ。視界が澱んで見える。俺はきりきりと痛む胃を手で押さえた。
「でも、」
橘が意を決したように、言葉を続けた。
「それはあくまで、話し合いが成立したのが、という意味です」
.....ん?話が見えてこない。
俺は記憶を遡る。確かに、俺が一方的に連絡を絶ってから、あの空き教室での会話まで、ある程度の時間が空いている。といっても数週間ほどだが。付き合うということを契約とするならば、その数週間はまだ契約継続期間、ということになるのだろうか。双方の合意は成立していない訳だし。
「私たちの関係は、もうとっくに終わっていたんです」
橘の語りは段々熱を帯びてくる。新田は真一文字に唇を結び、橘の話に聞き入っていた。白波瀬は怪訝そうな顔で、俺の方にちらちらと視線を向ける。俺は白波瀬に視線を返しながら、続きを待った。
橘は唇を濡らし、言葉を続ける。
「きっかけは、今坂君の浮気でした」
え?
言葉の意味がよく分からず、へ、と息が漏れる。しかし流れに乗った橘の語りは止まらない。
「二年生に上がる前のことです。二月.....くらいだったかな。わたしは、今坂君のスマホから、浮気の証拠を見つけました。わたしは問いただしたのですが、そこから喧嘩に発展してしまって。解決しないまま、今坂君とは関わらないようになってしまったんです。結局、ちゃんと話し合いをして、正式に別れたのが最近って感じです」
橘は、大きく息を吐いた。
なんだこれは。呆れるほどの嘘っぱち。ただ訳が分からず、俺は橘を見つめたまま動けない。
.....ああそうか。橘は賭けに出たのだ。じわじわと意図を理解し、そして怒りが腹の底から湧いてくる。俺との交際期間を詐称し、できるだけ矛盾がないようにするために。交際期間が被らないように。浮気相手であったことがばれないように。
ふざけるな。心の中では、心臓がはち切れそうなほど叫べるのに、喉が固まって感情は声に出せない。もはや目の前の彼女が、悪魔が人間の形をしているようにしか見えなかった。
第一、そんな杜撰な作り話でこの場が上手く収まるはずがない。実質的には数か月前に喧嘩別れしたくせに、最近まで付き合ってました、などどう考えても不自然極まりない。
橘も話の苦しさは理解しているらしく、青白い顔は悔しそうに歪められ、自信はかけらも見えない。こめかみに貼りついた茶髪は、暑さのせいだけではないだろう。
それに橘は.....。
ふと彼女と目が合う。彼女は視線で俺を捉えると、何かを訴えかけるように眉根を寄せ、目つきを鋭く尖らせる。
お願い、今だけこの話に付き合って。それか、本当のことは絶対に言うなよ。そんな身勝手なメッセージが読み取れる。
橘は、あまりにも俺のことを信用しすぎている。
握った拳が震えた。体じゅうに怒りが満ちていくのを感じる。
もういいじゃないか。自分の中で、何か枷が外れるのが分かった。こんな茶番に付き合う必要などみじんもない。そもそも橘は俺がスマホを覗き見たことも知らないのだから、ここで橘の嘘を暴いたところで責められはしない、むしろ、当たり前のことだ。
間違いを訂正して何が悪い。俺の発言によって巻き起こるさらなる修羅場も知ったこっちゃない。胸の中に溜まりに溜まった怒りにまかせ、俺は力強く一歩踏み出し、
新田と目が合った。新田は俺のことを見ていた。どこか幼さの残るその目に、怒りは含まれていなかった。ただ穴の開いた虚ろな瞳をこちらに向けていて、
俺の喉元までせりあがっていた言葉が、勢いを失い胃の中に落ちていくのが分かった。
ああ、俺は怒れない。
しかし、隣にいる彼女は違った。
肩を落とした俺に代わるように、横からずい、と姿を見せたのは白波瀬だった。
きっとこの場で最も状況が理解できていないであろう彼女は、それでも怒りで燃え滾った瞳をきっと橘に向け、
「ねえ、あなた、」
橘からすると、白波瀬はただの部外者。俺はまだしも彼女に敵意を向けられるとは思っていなかったようで、予想外の展開に体をかちりと硬直させる。
「話を聞いてると、あなたさっきから、」
嘘ばっかり。そんな風に言うつもりだったのだろう。しかし彼女の言葉は遮られた。俺が彼女の手を引き、走り出したからだ。
自分でもなぜそうしたのかは分からなかった。橘の嘘を暴くと面倒なことになると思ったからだろうか。はたまた、これ以上白波瀬を面倒ごとに巻き込みたくなかったからだろうか。
まずい、と胸を掠めた途端、理屈を組み立てるより先に、足は地面を蹴っていた。白波瀬の細い手首を握り締め、その場から離れる事だけを考える。後ろから白波瀬が何やら文句を言うのが聞こえるが、構わず走り続ける。
体育館の横を抜け、学校の裏門をくぐり、敷地外に出て、すぐ近くの公園に入って、ようやく一息ついた。
公園には先客はいなかった。赤黒く錆びた鉄棒と、チェーンがやたら細くて長いブランコ。あまりにも寂れた場所だった。いくら遊びに飢えた子供でも、こんなところで遊ぶまい。
「ねえ、痛い」
白波瀬の声に、俺は慌てて掴んでいた手を離す。彼女は解放された左手首をさすりながら、きっとこちらを睨んだ。
「ねえ、何考えてるの?」
その力強い眼光に、俺はたじろぎながらも言葉を返す。
「巻き込んで、悪かった。その、こんな風に強引に連れ出したのも謝る。詳しい事情はまた後日しっかり説明するから、だから、」
「そうじゃなくて!」
いつにもない気迫に、俺は気圧される。怒りがあふれて止まらない、そんな声色だ。俺が一歩後ずさると、白波瀬は二歩歩いて距離を詰める。彼女は髪を振り乱して叫んだ。
「なんであなたは怒らないのよ!」
「.....え」
俺がなにか返す暇も与えず、彼女は感情のままに顔をゆがませて言葉を吐き続ける。
「ねえ、橘さんの言ってたあれ、どう考えても嘘よね。だって浮気したのは彼女の方なんでしょ?なんであんな嘘つくの?なんであなたは黙ったままなの?あなたは悔しくないの?あんな嘘つかれて」
「.....悔しいよ」
ああ、悔しいさ。怒鳴ろうとした、怒鳴ろうとしたんだ、俺は。
「そうでしょ!?だったらそれを彼女に言わなきゃ駄目じゃない!なんであなたは黙ってたのよ。どれだけ不名誉なこと言われてたか分かってるの?あなた、馬鹿にされてるのよ、舐められてるのよ、愚弄されてるのよ!?怒ってるのなら言いなさいよ!ちゃんと、ふざけるなって怒鳴りなさいよ!なんでそうしなかったのよ!?」
分かってるさ。分かってる。でも俺には俺の、複雑な感情があって、だから。
「.....うるさいよ」
「え?」
なぜなのだろう。今まで溜まってきた鬱憤がここにきて頂点に達してしまったのか。白波瀬の言葉が、俺のちょうど痛いところを突いたからなのか。
分からないが、雪崩のように口から落ちた言葉は、もうひっこめることができなかった。
「白波瀬は関係ないだろ!?俺のことを大して知りもしないなら放っといてくれよ!」
俺の大声が反響した後、公園は静寂に包まれた。なぜか今は、セミも鳴いていない。あたりが薄暗くなり始めたことにやっと気づく。ぬるい風が吹き、公園をかこむ木々が不気味にざわめいた。
恐る恐る白波瀬の顔を見る。そして、俺は息をのんだ。
彼女の目に、涙が溜まっていた。それは俺の言葉を受けてのものなのか、それより前にすでに怒鳴りながら泣いていたのか。ただ、今にも溢れそうな潤んだ瞳に、俺の昂った感情は急降下を始める。
しんとした後悔が、胸を襲う。立ちすくんだ俺から気まずそうに目を逸らすと、彼女は腕で無造作に顔を拭い、その場を立ち去った。
鳥の鳴く声のみが、その場に寂しく響き渡った。




