第12話
水泳の授業が、ついに終わりを迎えた。残すところはテストのみ。結局俺と白波瀬は、最後までレポート用紙を埋める日々だった。
白波瀬はどうか知らないが、少なくとも俺のレポートのクオリティは回を重ねるごとに目に見えて低下を極めていった。目を覆って書いたのかと疑うほどの、目を覆いたくなるレポート。
そんなふざけた提出物を毎回受け取る羽目になった新田先生の心境たるや。それでも俺を叱らずに、困った笑顔を浮かべるのみの彼は、優しすぎる.....というか、きっとあの人は強い言葉を使うのが苦手なのだろう。
無理に踏み込まず、しかし隣には寄り添って、大抵の要望は目じりに皺を寄せて答えてしまう。そんな少々頼りなくも温かい先生を俺は慕っていたし、きっと俺以外もそうだったのだろうな。
お世話になった先生なのだ。間違いなく。最後くらいは何か、せめてまともに会話をしようと、書き上げたレポートを持ってプール横の体育教官室を訪れると、
「新田先生かあ。多分今は職員室かな」
ジャージを着た背の低い女性の教師が顎をさすりながらそう言った。小動物を彷彿とさせる、ミニマムな人だが、ここにいるということは体育を担当しているのだろう。
体育教官室は職員室を何倍も小さくしたような部屋で、教師のデスク以外には、ところどころに体育で使う器具が置かれている。俺はあたりをちらりと見まわすが、確かに新田らしき人はどこにも見当たらなかった。
下校時刻は過ぎている。職員室まで足を運ぶ労力を想像し、俺は辟易しつつ.....そもそも定期テスト前って職員室入っていいんだっけ?
「失礼します」
控えめなノックが後ろから響き、扉から姿を現したのは白波瀬だった。彼女は中にいる俺を見つけると、ほんの少し親しみの混じる視線を向け、それから
「新田先生、いらっしゃいますか」
俺の前にいた例の体育教師に声を掛ける。
「ああ、それ彼にもさっき同じこと聞かれたんだけどね」
「職員室らしい」
苦笑交じりの体育教師の言葉を引き継ぎ、俺は答えた。白波瀬の手にも俺と同じレポート用紙がある。その教師は事情を察したのだろう。
「よかったら預かっとくよ。それ、新田先生に提出するんでしょ?」
レポートを指さしてそう言った。
俺と白波瀬は顔を見合わせる。言葉を介さずともなんとなく浮かび上がる、じゃあそうさせてもらおうかな、という意思に、俺たちは互いに頷き、
「お願いします」
レポートを差し出した。新田との会話には漕ぎつけられなかったが、この体育教師のせっかくの好意だ。甘えさせてもらおう。
「今日中に提出のもので.....」
「了解です、今日中に新田先生に渡しとくね」
「ありがとうございます」
俺と白波瀬は頭を下げ、体育教官室を後にした。
外に出ると、息の詰まるような熱気と絶え間ないセミの声が俺たちを迎える。部屋の中で冷やされた肌が、みるみるうちに高温の中に溶けだしていく。季節は真夏に肉薄していた。
並んで植えられた青々とした桜の木の隙間から、プールが見える。太陽に反射した光が、こちらにまで届いて、俺は思わず目を細めた。ここ一か月、ただぼうっと眺めていたプール。飛沫の跳ねる輝きは十分すぎるほど目に焼き付けた。終わってしまえば変な意地だったな。後悔はしていないけれど。
立ち止まってプールを見つめる俺を、白波瀬は不思議そうに振り返る。
「帰らないの?」
「ああ、帰る.....」
なぜだろうか。そのときの俺は変に感傷的で、例えるならば、隠している大事な宝石を誰かに見せたいような、そんな気分になってしまったのだ。
「覚えてるか?」
口をついて出た言葉に、白波瀬は表情を変えず続きを待っている。俺は静かに息を吐いた。
「小学二年生のとき、白波瀬はプールに落ちて溺れただろ」
勢いに任せて思い出話を始めたが、いざ言ってみて違和感を覚える。プールに落ちて溺れたのは白波瀬なのだから、彼女の方が忘れているわけないだろう。変な聞き方をしてしまったなと彼女の方を見ると、案の定その目には呆れが浮かんでいた。
「落ちた本人なんだから、覚えているに決まってるでしょ。大体、私がプールを怖がってたのもあれがきっかけなんだから。.....あなたこそ、よく覚えてたわね」
白波瀬は俺の隣に立って、プールの方を向く。澄んだ瞳はずっと遠くの思い出を見ているようだった。
「覚えているよ。俺にとっては、結構悔しい思い出だったんだ」
「悔しい?」
「ああ。自分の泳ぎには自信があったからな。特に当時はさ。目の前で溺れている同級生を助けられなかったってのは、けっこう悔しかったんだ」
「確かに、そんなこと言ってたかもね。保健室で」
「だから、今リベンジできたような気分だよ」
「リベンジ?」
首を傾げる白波瀬に、俺は力強く頷く。
「ああ。今度は俺が助けられた」
一か月前の市民プールでの一件のことだ。数秒間ぽかんとした後、白波瀬はやっと思い至ったのか、あ、と小さく呟いた。
二度あることは三度ある、というがこれに関しては当てはまらないだろう。白波瀬はもう泳げるのだから。今の白波瀬が溺れるような状況なら、俺が助けに入っても無駄死にするだけだ。
いやあ、成長したものだなあ、と俺は先生らしくひとりうんうんと頷き、さあそろそろ帰ろうと身をひるがえしたところ、
「え?」
小さな、しかし力強い何かによって、俺の歩みは思うように進まない。そしてなにか、着ているシャツに妙なツッパリを感じるのだが.....。
振り返ると、白波瀬が俺のシャツの裾をぎゅっと掴んでいた。その白い指先を中心に、ぴんと張った皺ができている。
俺を引き留めている.....と考えていいのだろうか。意図が読めず、俯いた白波瀬の顔を覗き見る。なにしてんだと軽く口にしようとした俺は、思わず言葉を失った。いつのまにか頬は妙に血色がよく、瞳は自信なさげに潤んでいる。しおらしい、なんて表現が俺の頭に浮かんだ。
予想外でありながらテンプレじみてもいる展開に、そして何より幼くもどこか艶のある白波瀬の顔に、俺の心臓は早鐘を打ち始めている。
「あ、」
白波瀬はそう呟いた。あ?なんだろう。
「あり、がとう」
感謝をされた。
「あ、はい.....。えっと?」
微妙な反応しか返せない。感謝されるようなことは.....結構してると思うけど。溺れてる白波瀬を助けたり、泳ぎを教えたり、挙句の果てには下着を買いに行ったり。いやほんとに俺色々してるな。
しかし文脈がつかめない。白波瀬の感情はどういう軌道を描いて感謝までたどり着いたのだろう。
戸惑う俺に気づいたのか、白波瀬ははっと顔を固くし、裾から手を離した。解放されたシャツが皺を残したまま俺のもとへ戻る。
「な、なによ。何か文句ある?」
俺の困惑を妙な解釈で受け取ったようで、態度は一転、この強気な口調はある意味いつも通りだが、しかしそうではなくて。
「お、お礼くらい好きに言わせなさいよ」
「ああ、言っていい。言っていいしありがたく受け取るが、その、何についての.....」
感謝なんだ。俺がそう言いかけたそのとき、背後から足音が迫る気配がした。
「あれ、今坂君.....と白波瀬さんじゃん」
飛び跳ねるようなハスキーな声は、俺の心をいやらしく逆なでする。
「橘.....」
俺から漏れた覇気のない声に、隣にいた白波瀬の顔がさっと曇った。
ああ、そうだ。白波瀬には橘と付き合った後、浮気されたことを伝えてあったのだ。しかし、橘のことは知らないと言っていた。こんな形で対面するのは初めてだろう。
「こんなところで何してるの?」
橘は俺に問う。以前と違い、ベストはもう身に着けていなかった。開けたシャツの胸元から、鎖骨がちらりと見える。緩めたリボンと相も変わらず短いスカート。華やかでありつつもどこか素朴さを残すその顔には、悪意が滲んでいるようには見えなかった。
「体育のレポート提出しに来てただけだよ。今日の体育、俺と白波瀬どっちも見学だったから」
事実をそのまま答えると、橘はへえ、と興味なさげに薄い返事を返した。クラスが違うので、俺と白波瀬が毎回揃って見学をしていることは知らないのだ。好都合だった。
「体育と言えばさ。そういや、もうすぐ水泳のテストだね。でも、今坂くんは余裕でしょ?いいなあ、わたしはちょっと不安」
「大丈夫だよ。成績の基準、割と甘いみたいだし」
「そうなの?じゃあ安心かも~」
軽快な会話。ぷかぷかと浮いてしまいそうなほど中身がなく、毒にも薬にもならない世間話。触れれば壊れてしまいそうな不安定な膜を、それでも橘が共に作ってくれることに安心する。
そんな薄い膜の上で、バランスを崩さぬよう俺と橘はつまらない会話を続ける。きっと彼女もここを通りがかったのはたまたまで、一応知り合いだからという理由で俺に話しかけただけなのだろう。そうであってくれ。
その間、白波瀬は冷めた表情で遠くの方の景色を眺めていた。彼女も、橘が浮気をしたこと以外は知らないはずだ。このきまずい空間の中、完全な他人事を決め込んでくれるのはありがたかった。
できれば早々に会話は切り上げ、撤収したかったのだが、
「あは、ごめんね白波瀬さん。こっちで勝手に盛り上がっちゃって」
枠外に置かれた白波瀬に気を使ったのか、はたまた何か目的があるのか。橘はすい、と白波瀬に視線を向けると、申し訳なさそうな表情を顔を貼り付け、両手を顔の前で軽く合わせた。
「いえ.....別に」
白波瀬は愛想笑いさえも浮かべようとはせず、冷淡にそう言い放つ。しかし、特段橘に敵意があるわけでもないのだろう。どちらかと言うと、会話を振られたことに対する困惑が先立っている。
そんな白波瀬に、橘はわざとらしい笑顔は健在のまま、あは、と笑う。
「白波瀬さんって、今坂君と同じクラスだよね。わたし、白波瀬さんと一度話してみたかったんだよね~。ほんと、改めて見てみるとすっごい美人。うらやましいなあ」
おい、お前この間白波瀬のことヤバい女とか言ってなかったか?上っ面も上っ面。あまりの節操のなさに、開いた口が塞がらない。女子ってみんなこうなの?こいつだけであることを願うばかりだ。
「え?はあ.....どうも」
白波瀬も反応に困っている。そこでえー嬉しいありがとおー、なんて言わないあたりが白波瀬らしいが、彼女にしてみれば目の前にいる人間について、浮気をした以上の情報がないのだから、まあそうもなるわな。
これ以上ここにとどまっても、なんの意味もない。俺は会話を終わらせようと、橘と白波瀬の間に一歩踏み出すが、
「いやあ、今坂君が羨ましいよ。こんな美人さんと付き合えるんだもん」
橘の口から飛び出した発言は、その場の時間を一瞬止めた。耳の中に侵食する勢いで鳴っていたセミの声も、その時ばかりはすっと遠ざかったような気がした。白波瀬は、へ?と間の抜けた声を漏らし、俺の方を向く。
どういうことなの?
そんな視線を左頬あたりに感じながら、俺の中では猛烈な後悔が渦巻いていた。妙な緊張感が漂う中で、背筋が痺れるような謎の不快感が俺を襲う。
そうだ。橘は俺と白波瀬が付き合ってるだとか、そんな勘違いをしていたのだ。こういう事態になるのなら、なぜもっと早く訂正しておかなかったのか。後悔してももう遅い。
俺は橘に聞かせるようにため息をつき、
「誤解だ」
橘は目をぱちくりさせる。
「前も言ったと思うけど、俺と白波瀬は付き合っていない。小学校時代からの知り合いで、まあ仲はいいから一緒に帰ったりもするが、とにかく付き合ってはいないんだ」
俺の言葉に、横で白波瀬が頷くのが見えた。今のやり取りで白波瀬がどこまで状況を把握したのかは分からないが、少なくとも橘側の誤解で生じたということは理解したらしい。
「え、そうなの?」
「そうだよ。というか、俺付き合ってるとか一言も言ってないだろ.....」
どうやら、橘は本当に思い違いをしていたらしい。
「そうだったっけ?まじか。あーじゃあ、なんかごめん。いやあ、わたしてっきり照れ隠しなのかと思ってさあ。白波瀬さんも、ごめんいきなり」
思っていたより素直な反応だ。頭を下げた橘に、白波瀬もいえ、と控えめに首を振る。予想外に常識的に事は運び、俺としては拍子抜け感が否めない。
なんだ、こんな簡単に誤解が解けるのなら、もっとはやく伝えておけばよかった。そもそも、俺がちゃんと向き合うことを後回しにしていたのも原因の一端だ。それに、付き合っていないのは事実だが白波瀬との距離は確かに近いし、周りから疑われるのも頷ける話で.....。
「でも、今坂君は結構いい男だよ?おすすめ。まあちょっと奥手というか、ヘタレなところはあるけど、でも自信を持って薦められる男だよ。あは、でも今坂君にはもったないかなー、白波瀬さんは」
謝った先から、なんて調子のよい奴だ。橘のくるくる回る口は止まらない。
「そんなことないわよ」
氷のように冷たく、しかしさらりと滑らかに通る声だった。白波瀬は橘をまっすぐに見据え、静かに言い放った。二人を比べて見ると、背丈は橘が上回っている。しかし、白波瀬の纏う鋭い威圧感はその差を感じさせない。気温が二、三度下がったような錯覚のなか、俺と橘は唖然としていた。
「もったいなくなんかないわ」
俺はそこで、白波瀬なりに俺をかばってくれたことを理解した。白波瀬を見ると、向こうは少し気まずそうに視線を逸らす。じんわりと胸が熱くなるのを感じた。橘ははっと顔を上げると、金縛りの解けたように何度も頷く。
「そ、そうだよね。今坂君は優しいし、うん。元カノのわたしがおすすめするんだから間違いな.....あ」
そして失言した。橘は自分のミスに気づくと、視線を左右に泳がせながら口に手を当てる。やば.....とくぐもった声がかすかに聞こえた。
橘と俺が付き合っていたこと。ほとんどの人には隠している事実だ。
しかし、今回に限り橘の焦りは無用だ。だって、白波瀬にはとうに話してしまっているのだから。
俺はため息をつき、
すまん、ちょっと付き合ってくれ。
そんなメッセージを込めて、テレパシーのように白波瀬に視線を送る。彼女がそれをどう受け取ったのかは分からないが、とにかくアイコンタクトを返し、こくりと頷いてくれた彼女を信じる。
俺はこほんと咳払いをした。
「あーっと.....まあ、実はそうなんだ。あんまり周りには言ってないことなんだが、俺と橘は、結構最近まで付き合ってて、まあもう別れてはいるんだが.....」
我ながらひどい芝居だ。こんなことに付き合わされている白波瀬には、あとからたっぷりと謝らないと.....。
「最近まで.....?」
聞き覚えのある、困惑交じりの低い声。突如後ろから聞こえたその声に、俺は心臓を殴られたような衝撃を受けた。なにかまずいことが起きてしまったのだと、直感で理解する。
「なんで.....?」
俺の頭の上を凝視して、橘は半ば悲鳴のような声をあげた。
「職員室にいるはずじゃ.....」
振り向くと、俺の後ろにいた新田は顔をひきつらせてこちらを見ていた。




