18.ビクターの過去
パーティ―から戻り、ソファでビクターと向き合って座る。少し緊張感のある二人の空間。
アダムたちが薬の売人を見事に捕まえ、パーティーどころではなくなり、そのおかげでエルザとの小競り合いの醜聞も掻き消えた。
ビクターが紅茶を淹れると、湯気が立った。相変わらずのいい香りに、思わず目を閉じる。
「どうぞ」とビクターがクララの前のテーブルに置いた。
「ありがとう」
ミルクを注ぎ、スプーンを入れて前後に動かす。オレンジだった水色が、綺麗なミルクティー色に変わった。
「あれ、今日はミルクなの?」
「はい。やっぱりミルクの方が好きだと気づいたので」
もう自分に嘘を吐くのはやめたのだ。
「そっか。僕もミルクの方が好きなんだ」とビクターもミルクを入れた。一口飲んで少し気を落ち着かせる。
「それで、さっきの話なんだけど」
ビクターがカップをソーサーに戻し、膝の上で両手を組んだ。
きた!とクララもカップを置いて、身構える。大丈夫。今の私ならば何を言われても受け止められる!
じっとビクターを直視すると、彼は気まずそうに目を逸らした。
「あー、実は、その君の妹君が言っていたことなんだけど、その…」
「知っています。…実は知っていて」
言いにくそうなビクターに代わり、「すみません」とクララが申し訳なさそうに眉を下げた。
「知っていたって。え?」
ビクターが目を見開き、上半身を乗り出した。
「え、じゃあ、僕の存在に気づいていたの?」
「あ、いいえ。我が家にいらっしゃっていたのは覚えていないのですが、噂で聞いてしまって」
「噂?」
「ビクターがエルザを諦められなくて、その、私と結婚したって」
「は?」
立ち上がらんばかりのビクターを、クララが両手で制する。
「あ!いいんです!私、今、とっても幸せで、本当にビクターに感謝していて!だから、全く気にしていませんので!むしろエルザにもお礼を言いたいくらいというか」
ビクターが目元を手のひらで覆ったせいで、表情が見えなくなってしまった。
やっぱり、知らなかったことにした方が良かったかしら?
「あ、あの、ビクター?」
余りにも静止時間が長いので、恐る恐る声を掛けると「はあ」と貴族らしからぬ溜息が聞こえた。
「クララはその噂をいつ頃から聞いていたの?」
「王城のパーティーから」
「王城のパーティー。そうか、なるほど。合点がいったよ。君の元気がなくなった頃だね」
ビクターの悲し気な瞳とぶつかった。
「あ、いや!全然!お気になさらず!私は本当に平気なので」
どうしよう、やっぱり気にされているわ。言えば言う程、気にしている風に伝わっているかも。何て言えば問題ないと伝えられるかしら?
悶々と考えていると、ビクターがクララのソファのすぐ隣にやって来た。
「申し訳ない。君を傷つけてしまった」
余りにも深刻そうな声に、クララはビクターの正面に立って、手を振る。
「やめてください!本当に気にしていないので!私、今が人生で一番幸せなんですから!」
「人生で一番?そっか」
辛そうに微笑むビクターに、クララも胸が痛くなる。
そんなお顔をしてほしくない!どうしよう…。やっぱり言うべきじゃなかったんだわ。
「その噂は嘘だよ」
「え?嘘?」
「そう、嘘。僕がエルザ嬢を好きだったことなんて一度もない。僕はクララが好きだったんだ」
……え?
「え、それは嘘ですよね?だって私は一度だってそういった華やかな場に参加したことがないんですから」
「僕が君を知ったのはエルザ嬢の家に行った時だから」
「ほら、やっぱり」
エルザが家に呼ぶのは自分に気がある男性が殆どだった。つまりビクターはエルザの取り巻きの一人ということ。
表情に影を落としたクララに、「違うんだ」と首を横に振る。
「実は僕、かなり太っていたんだよ」
苦笑いしながらビクターがおでこに手を当てた。予想外の言葉にクララが一瞬、言葉に詰まった。
「太っていた?」
「そう。自信がなくて、消極的で、怠け者で、何をやらせても駄目だった」
信じられない。今のビクターとは真逆だ。
「だから当然モテないし、恋愛の話は避けたくてね。周りに乗っかって当時、一番人気だったエルザ嬢を好きな振りをした。大勢に紛れれば目立たなくなるから。最低だよね。こんなみっともない自分、クララには知られたくなかったんだけど」
はは、と力なく笑う。
好きな振り?じゃあ、あの噂は。
「エルザ嬢のパーティーに行っていたのはホント。熱心に好きな振りをしていたのもホント。思い返すと自己嫌悪に陥るよ。三回目のパーティーの時かな。エルザ嬢の機嫌が悪くてね。僕の太った容姿を馬鹿にされたんだ。周囲も嗤っているし、泣きそうになって部屋を飛び出した。そこで君に会ったんだ」
オレンジの髪の太った男の子?
あ!いたかもしれない。ボロボロ泣いていた男の子。まさか、あれがビクター?
「『どうしたの?』『お腹痛いの?』ってハーブティーを用意してくれて、『大丈夫だよ』ってずっと背中を撫でてくれた。すごく優しかった。太った僕に優しくしてくれる人なんていなかったのに」
ビクターは大切に思い出すように、伏し目がちで語った。
「それからは痩せる為に運動と食事制限して、社交も絶った。今の体形になって、夜会に参加して君を探した。当時の知り合いや、エルザ嬢にも挨拶したけど、僕のことなんて一切覚えていなかったよ。だからまさかそんな噂話が出てるなんて夢にも思わなかった。気まずい思い出だから忘れた振りをしていたのかな」
苦笑しながら、首に手を当てる。
「結婚の理由を聞いてきたよね?あの時、全部正直に話せばよかった。自分に都合の悪い部分を伏せたせいで、嫌な思いをさせてごめん。いつまで経っても僕は駄目な人間だ」
「そんなことない!ビクターはずっと優しかったわ!私が弱かったせいで、信じきれなかっただけなの。あなたの行動を見ていたら、疑う理由なんてなかったのに…」
そうだ、ビクターはいつも気遣ってくれて、温かくて、私を想ってくれていたのに…。恐くて逃げたのは私だ。
『誰かの一番になりたい』
手を伸ばせばすぐ叶うところにあったんだ!
クララが泣きそうな顔をした。
「ごめんなさい」
「クララ。どうして君がそんな顔をするの。謝るのは僕の方なのに」
ビクターが慰めるようにクララの肩を撫でる。
「泣かないで、クララ。泣いてもらう資格なんてないんだ。エルザ嬢がゲイリー公爵家のご子息と結婚するかもって聞いて、すぐに君に結婚を申し込んだ。貴族は打算的だから、ゲイリー公爵家と繋がりができればクララにも結婚の申し込みがくるかもって思うと不安で、先手を打って君の選択肢を潰した。君の親にお金まで渡して。僕は卑怯で、最低な人間なんだ。ごめん」
「そんなこと…」
一瞬、言葉に詰まるが、すぐに顔を上げた。
「私に結婚の申し込みをする物好きは、ビクターくらいよ」
クララが涙を拭いて、ビクターと目を合わせて微笑む。
「そんなわけないよ!君は自分の魅力に気づいていないだけだ」
必死に反論してくるビクターが何だか面白くて、笑ってしまった。
ビクターがムッとした表情を作る。
「信じていないね?」
「そうね。だって私、ずっと自分が嫌いだったの。でも結婚してから色々あって、最近やっと好きになってきたところ。あなたのおかげで、もっと自分を好きになれそう。ありがとう」
「軽蔑しないの?」
「しないわ。だって私の為にそんなことをしてくれる人、今までいなかったもの。だから嬉しかったのよ」
「じゃあ僕はクララを好きでいてもいいの?」
少し緊張感のある声音で、ビクターが不安そうにクララの顔を窺う。
「ええ、すごく嬉しい!あなたがいたから、私は今こんなにも幸せなのよ」
クララが満面の笑みを向けると、ビクターは安心したように力を抜いた。
「ああ、良かった。クララに嫌われたらどうしようかと」
「そんなこと、あるはずないわ!あれ?でもそれならどうして、結婚式では頬へのキスだったの?それに…」
初夜も、とはさすがに声に出せずに、目を彷徨わせた。
ビクターが察したように、「ああ」と声に出す。
「無理やりに結婚してしまったから君が僕を好きになってくれるまで待とうと思って。ねえ、これからはもう見栄を張ったりせず、クララに嘘をついたりしない。だからもう一度チャンスをくれないかな。君が僕を好きじゃないことは分かっているけど、もう一度最初からやり直したい。駄目かな?」
クララの右手を、ビクターが両手で包んだ。
形の良い瞳にじっと見つめられ、心臓が高鳴る。ビクターは少し自信なさげにも見えた。
ハッとして顔を上げる。
そうか、私が噂を気にしていないなんて言ってしまったから?
「私が噂を気にしないと言ったのは、ビクターに気を遣わせたくなかったからで、決して、私がビクターを何とも思っていないとか、そういう話では!」
「本当?」
「勿論です!結婚だって嬉しくて仕方なかったし、ビクターと一緒にいるのも楽しくて、それから」
ビクターがクララを抱きしめた。すっぽりと包み込まれる。ぎゅうぅとする腕の力も、すぐ近くにある顔も、全てにドキドキした。
「クララ、今日から君に好きになってもらえるよう、全力でアプローチするよ。本当は今すぐキスしたいけれど、その時までキスも、その先もとっておく。もし僕に気持ちが傾いたら、その時は」
ビクターが名残惜しそうにクララを離し、鏡台から手のひらサイズのプレゼントボックスを取り出した。白い箱に、赤いリボンが掛かっている。クララの両手の上にそっとその箱を置いた。
「その時はこの香水をつけて僕に教えて」
クララの唇を指でなぞりながら、ビクターが囁いた。ぼんっと顔全体が真っ赤に染まる。
「頑張るね」
にっこりと微笑むビクターは、今までよりも魅惑的で、クララは赤い顔のまま固まった。
香水の出番は、きっとすぐだ。クララは緊張で倒れそうになった。




