3話 見てました?見てません。
白石さんと一緒に昼飯を食べるようになって、一週間が経った。
不思議なことに、俺たちは少しずつ話すようになっていた。
仕事の話。
好きな食べ物。
休日の過ごし方。
どうでもいい話。
ただ、一つだけ。
俺たちは、あの夜の話をしなかった。
俺も聞かなかった。
彼女も言わなかった。
――金曜日。
「○○さん、まだ帰らないんですか?」
午後八時。
オフィスに残っていたのは、俺と白石さんだけだった。
「この資料、今日中に終わらせたくて」
「私もです」
白石さんは向かいの席でパソコンを打っている。
しばらく、キーボードを叩く音だけが響いた。
「……眠い」
白石さんが小さく呟いた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「顔、すごいですよ」
「どういう意味ですか」
「死にそう」
「ひどい」
彼女が笑った。
仕事中の完璧な笑顔じゃない。
少し気の抜けた、普通の笑顔。
俺はその顔が好きだった。
そう思った瞬間、自分で驚いた。
好き?
いや。
まだ違う。
たぶん。
「○○さん」
「はい?」
「私の顔、何かついてます?」
「え?」
「さっきから見てますよね」
「……見てません」
「見てました」
「……すみません」
白石さんは少し照れたように笑った。
「変なの」
「すみません」
「別に、嫌じゃないですけど」
「……」
心臓が一つ、大きく鳴った。
そのときだった。
白石さんが突然、鼻を押さえた。
「……ん」
「……」
俺は見ないようにした。
すると彼女が言った。
「……今、見ました?」
「見てません」
「嘘」
「見てませんって」
彼女はじっと俺を見る。
「……あの日から、私が鼻を触るたびに警戒してません?」
「してません」
「してる」
「……ちょっとだけ」
白石さんが吹き出した。
「ふふっ」
「笑わないでください」
「だって……」
彼女は笑いながら、
「○○さん、本当にあの日のこと気にしてるんですね」
「そりゃ気にしますよ」
「忘れてって言ったのに」
「無理ですよ」
「どうして?」
彼女が笑うのをやめた。
まっすぐ俺を見る。
「……どうしてですか?」
答えられなかった。
だって。
もう、鼻くそのせいだけじゃない。
「……白石さんが、変な人だからです」
「それ、褒めてます?」
「たぶん」
「じゃあ、ありがとうございます」
彼女は少し笑った。
そして立ち上がる。
「コーヒー買ってきます。○○さんも飲みます?」
「お願いします」
「砂糖は?」
「一個」
「了解です」
彼女がオフィスを出ていく。
数分後。
戻ってきた彼女が、俺の机にコーヒーを置いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「……あ」
「?」
「砂糖、二個入れちゃいました」
「珍しいですね」
「すみません」
彼女は笑った。
「疲れてるのかな」
俺も笑った。
そんな何気ない時間が、妙に心地よかった。
そして帰り道。
駅まで二人で歩いた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「じゃあ、また月曜日」
「はい」
改札の前で別れる。
彼女が数歩進んだところで、振り返った。
「○○さん」
「はい?」
「……あの」
少し迷ってから、
「また、二人でご飯食べません?」
俺は笑った。
「もちろん」
彼女も笑った。
その夜。
俺はベッドに入ってから、ふと思った。
俺が忘れられないのは――
もう、あの夜の出来事じゃない。
白石さんそのものなのかもしれない。




