2話 2人だけの秘密
昨日の女――名前は、白石美咲。
それが俺の知った彼女の名前だった。
「では、こちらの資料についてですが……」
会議室では、昨日の出来事など存在しなかったかのように、彼女は完璧だった。
姿勢がいい。
言葉遣いも綺麗。
説明もわかりやすい。
昨日、駅のベンチで鼻をほじっていた人間と同一人物とは思えない。
「何かご質問はありますか?」
彼女が俺を見る。
「……ありません」
「そうですか」
にこっと笑う。
その笑顔も完璧だった。
会議が終わり、上司たちが先に部屋を出ていく。
俺も資料をまとめていると、
「……ちょっと」
背後から小さな声がした。
振り返る。
白石さんだった。
「はい?」
「昨日のこと」
「……はい」
「本当に誰にも言ってませんよね?」
「言ってませんよ」
「会社の人にも?」
「言ってません」
「友達にも?」
「言ってません」
「家族にも?」
「家族にも言ってません」
彼女はじっと俺を見る。
「……SNSには?」
「するわけないでしょう」
「ですよね」
安心したように息を吐く。
そして、なぜか俺の机の前まで来た。
「じゃあ、ひとつお願いがあります」
「なんですか?」
「昨日のこと、私たち二人だけの秘密にしません?」
「……秘密?」
「はい」
そう言って彼女は、人差し指を唇に当てた。
「絶対、誰にも言わない」
「……わかりました」
「約束ですよ」
「約束です」
彼女は満足そうに笑った。
「ありがとうございます」
そして会議室を出ていった。
俺は一人になった。
なぜだろう。
ただの変な出来事だったはずなのに。
少しだけ、嬉しかった。
俺と彼女しか知らない秘密。
それが妙に特別なものに思えた。
――その日の昼休み。
「キラ山さん」
食堂で声をかけられた。
白石さんだった。
「一緒に食べてもいいですか?」
「え?」
「……嫌ですか?」
「いや、そういうわけじゃ」
「じゃあ、座りますね」
向かいに座る。
昨日まで他人だった女が、当然のように俺の前で弁当を広げている。
「会社では、昨日のこと忘れてくださいね」
「またそれですか」
「大事なことなので」
彼女は真顔だった。
「わかりましたよ」
「よかった」
彼女は箸を取った。
「……あ」
「どうしました?」
「いえ」
彼女は少しだけ笑った。
「こうやって普通に話せるの、不思議ですね」
「まあ……昨日までは知らない人でしたからね」
「そうですよね」
彼女は弁当を一口食べる。
そして俺を見る。
「でも、もう知らない人じゃないですよね」
「……まあ」
「秘密を共有してますから」
そう言って笑った。
その笑顔を見て、
俺は思った。
昨日のことを忘れろと言われたのに。
たぶん俺は――
この人のことを、昨日よりずっと忘れられなくなっていた。




