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1話 忘れてください



 その女を、最初に見たのは駅のホームだった。


 仕事帰りの午後十一時過ぎ。


 人もまばらなホームで、俺は電車を待っていた。


 少し離れたところに、女が一人いた。


 綺麗な人だった。


 長い黒髪に、白いシャツ。仕事帰りなのか、肩から小さなバッグを下げている。


 その人が、ホームの端でしゃがみ込んだ。


「どうしたの?」


 見ると、小さな男の子が泣いていた。


「お母さん、どこ……」


「大丈夫。駅員さん、一緒に探そうか」


 女は男の子の目線までしゃがんで、優しく笑った。


 俺はなんとなく、その様子を見ていた。


 こういう人っているんだな。


 見ず知らずの子どもに、こんな自然に声をかけられる人。


 しばらくして駅員が来ると、女は男の子を任せて立ち上がった。


 そして何事もなかったように、俺のすぐ隣のベンチに座った。


「…………」


「…………」


 気まずい。


 知らない女性と二人。


 俺はスマホを見るふりをした。


 彼女もスマホを取り出した。


 電車が来るまで、あと三分。


 静かな時間だった。


 そのとき。


「……ん」


 隣から、小さな声が聞こえた。


 彼女が鼻をこすった。


 そして、ちらっと周囲を見る。


 右。


 左。


 誰も見ていない。


 俺はスマホを見ている。


 彼女は安心したようだった。


 そして――


 鼻に指を入れた。


「…………」


 俺は見なかったことにした。


 そう決めた。


 大人として。


 紳士として。


 しかし。


 彼女の指が鼻から出てきた。


 そして、その指先を――


「……」


 口に入れた。


「…………え?」


 思わず声が出た。


 彼女が振り向いた。


 目が合った。


 完全に。


 見られた。


「…………」


「…………」


 長い沈黙。


 彼女の顔が、みるみる赤くなる。


「……見ました?」


「……はい」


「今の?」


「……はい」


「…………」


 彼女は俯いた。


 そして、小さな声で言った。


「忘れてください」


「……努力します」


「努力じゃなくて」


 顔を上げる。


 耳まで真っ赤だった。


「忘れてください」


「はい」


「絶対ですよ」


「はい」


「誰にも言わないで」


「言いません」


「……本当に?」


「本当に」


 彼女はしばらく俺を疑うように見つめていた。


 やがて、


「……よかった」


 と呟いた。


 その瞬間。


 電車がホームに滑り込んできた。


 彼女は立ち上がった。


「じゃあ……」


「あ、はい」


「……さようなら」


「さようなら」


 彼女は電車に乗り込んだ。


 扉が閉まる。


 電車が動き出す。


 俺はその後ろ姿を見送った。


 そして思った。


 ――変な女だった。


 それだけだった。


 その夜は。


 翌朝。


「今日からこの案件、手伝ってもらうから」


「俺がですか?」


「そう。先方の担当者が今日来るから」


 上司から資料を渡された。


「相手は?」


「キラキラ商事。担当は――」


 その名前を聞いても、特に何も思わなかった。


 午前十時。


 会議室のドアが開いた。


「失礼します」


 入ってきた女を見て、


 俺は固まった。


 黒髪。


 白いシャツ。


 昨日と同じ顔。


 彼女も俺を見た。


「…………」


「…………」


 彼女の表情が凍った。


 そして、俺にだけ聞こえる声で、


「……昨日の人」


「……はい」


「……」


 彼女は数秒黙った。


 それから、営業用の完璧な笑顔を作った。


「本日はよろしくお願いいたします」


「こちらこそ」


 俺も笑顔を返した。


 彼女は席についた。


 そして資料を開きながら、もう一度だけ俺を見る。


 その目は、


 絶対に昨日のことを言うな。


 と訴えていた。


 俺は小さく頷いた。


 そのときはまだ知らなかった。


 この女と、これから何度も会うことになるなんて。

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