エピローグ
四時半、バスは動き出した。
片側交互通行の誘導灯が雨上がりの路面に赤く伸びて、それを抜けると、山が終わり、空が開けた。乗客はみんな、もう眠っていなかった。誰もしゃべらず、けれど気まずくもなく、ただそれぞれの窓で、明けていく空を見ていた。
トンネルをひとつ抜けたとき、拓海が「あっ」と声を上げた。
海だった。
朝の光がまだ斜めで、水面が一面、鈍い金色に光っていた。島さんが奥さんの肩を軽く叩いて、「ほら、着くよ」と言った。奥さんは目を開けて、海を見て、四十一年前と同じ町の名前を、正確に言った。
午前十時七分、バスは星ノ浦の駅前に着いた。
別れは、あっけなかった。
連絡先を交換しようと言い出す人は、誰もいなかった。莉子さんが「じゃ、皆さん、いい祭りを」と手を振り、浅井さんが「お互い、頑張りましょ。何をかは知らないけど」と笑い、拓海はフードを被り直して、漁港の方角を確かめてから、一人で歩き出した。堀口先生は深く一礼し、島さん夫婦は手をつないで、坂の上の宿のほうへゆっくり消えた。
僕が最後だった。降り際に、八木さんが言った。
「便箋、足りなくなったら、駅前の文房具屋で売ってますよ。灯籠祭の時期は、夜までやってます」
「……詳しいですね」
「十二年目ですから」彼は笑った。「気をつけて。帰りの便でも、ご縁があれば」
その日の夜、僕は浜にいた。
灯籠巡礼祭は、想像していたよりずっと静かな祭りだった。屋台も音楽もほとんどなく、浜のあちこちに人がしゃがみ、思い思いに手紙を書き、小さな灯籠に折りたたんで納めていく。波の音と、紙の擦れる音と、ときどき、誰かの洟をすする音。
便箋は、結局、買い足した。三枚では足りなかった。
書き出しは、決めていた通りにした。そこから先は、止まらなかった。入学式の資料の話。航の笑い方。気づいていたのに信じたふりをしたこと。レポートのこと。「明日でいいか」のこと。葬式で言えなかったこと。千回開いた画面のこと。このバスのこと。今夜会った人たちのこと。最後に、もう一度、ごめん。それから、ありがとう。
灯籠を水際に置いて、そっと押し出す。
小さな火は、波に二度ほど押し戻されてから、ふいに沖への流れをつかまえて、すうっと遠ざかっていった。
顔を上げると、暗い海の上に、灯がいくつも揺れていた。
どれが誰のものかは、わからない。でも、僕は知っている。あの中のひとつは、七年前の廊下に立つ十四歳に宛てられている。ひとつは、十六歳の意地悪な女の子に。ひとつは、隣で眠る奥さんに。ひとつは、雨の朝のカーブの彼に。もしかしたらひとつは、漁港の男の人に——声をかけられなかった代わりに。理由のなかった彼も、今ごろ浜のどこかで、何かしらの宛先を見つけているのかもしれない。
僕たちは、仲間ではなかった。
友達にもならなかった。連絡先も知らない。明日になれば、顔も少しずつ忘れていくだろう。
ただ、一晩だけ、同じ方角を向いていた。
行き先だけが、同じだった。
でも——それだけで救われる夜が、人生には、あるのだと思う。
沖の灯はもう、星と見分けがつかないくらい小さい。
僕はポケットからスマホを出して、十一か月ぶりに、あのトーク画面に文字を打った。送信先のない返信。それでも、打った。
『話せるよ。いつでも』
波の音が、既読の代わりに、返ってきた。
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