特別な夜のその後に(Side沙月)
もう夜も遅い。
外では相変わらず雨が降り続いている。
「じゃあ寝るか」
悠也さんがそう言った。
あたしは少しだけ緊張した。
好きな人の家。
好きな人と二人きり。
しかも泊まり。
ベッドは一つしかない。
一緒に寝るのかな。
いや。
そんなわけないか。
そんなことを考えていると。
「さっちゃんはベッド使えよ」
悠也さんは当たり前みたいに言った。
「え?」
「俺はソファーで寝るから」
「いやいやいや!」
思わず声が出る。
「それはダメでしょ!」
「なんでだよ」
「だって家主じゃん!」
「客人優先」
さらっと返された。
この人はどこまで優しいんだろう。
結局押し切られてしまった。
断る方が失礼な気がして。
あたしは一人で寝室へ向かった。
⸻
そして。
大問題が発生した。
「……」
ベッドに潜り込む。
「……」
布団をかぶる。
「……」
落ち着かない。
めちゃくちゃ悠也さんの匂いがする。
いや。
臭いとかじゃない。
むしろ逆。
柔軟剤なのか。
シャンプーなのか。
よく分からないけど。
落ち着く。
でも落ち着かない。
心臓がうるさい。
「もう……」
枕に顔を埋める。
好きな人のベッドで寝るなんて。
高校生の頃のあたしが聞いたら卒倒すると思う。
付き合った男の子と手も繋がずに終わったのに。
今は。
人生で初めて本気で好きになった人の家に泊まっている。
これが恋じゃなかったら何なんだろう。
⸻
窓の外が光った。
一瞬。
部屋が白く染まる。
その直後。
ゴロゴロでは済まない轟音。
「っ……」
身体が固まる。
昔から苦手だった。
胸の奥がざわつく。
心臓が縮こまる。
小さい頃から変わらない。
雷だけはどうしても苦手だった。
大丈夫。
もう二十一歳だ。
これくらい平気。
そう言い聞かせる。
でも。
また空が光る。
次の瞬間。
ドォォォン!!
建物全体が揺れたような気がした。
「ひっ……」
情けない声が漏れる。
ダメだ。
怖い。
本当に怖い。
⸻
行きたい。
今すぐリビングに行きたい。
でも。
これ以上迷惑はかけられない。
迎えにも来てもらった。
泊めてもらった。
買い物までしてもらった。
これ以上は。
そう思って我慢した。
十分。
二十分。
どれくらいだっただろう。
また雷が鳴った。
限界だった。
枕を抱えて。
寝室のドアを開けた。
⸻
「ゆうやさぁん……」
情けない声だったと思う。
でも。
悠也さんは笑わなかった。
「怖いのか?」
優しい声。
その一言だけで泣きそうになる。
「……うん」
小さくうなずく。
「仕方ないな」
そう言って。
ソファーから立ち上がる。
「同じ部屋にいてやるから」
その言葉だけで少し安心した。
でも。
まだ怖かった。
「手だけ……」
「ん?」
「手だけでも握っててくれない?」
自分でも甘えすぎだと思う。
だけど。
言ってしまった。
悠也さんは少しだけ苦笑して。
「これでいいか?」
そう言いながら手を差し出した。
⸻
大きな手だった。
温かい手だった。
しっかりしているのに。
優しい手だった。
包み込まれる。
そんな感覚。
不思議だった。
雷の音はまだ聞こえている。
なのに。
怖くない。
安心する。
ただそれだけで。
胸がいっぱいになる。
この手に何度助けられたんだろう。
初めて会った日も。
誕生日の日も。
そして今日も。
気付けば。
一番頼りたい人になっていた。
肩にもたれかかる。
怒られなかった。
追い払われなかった。
それが嬉しかった。
「ありがとう……」
小さく呟く。
そのまま。
安心したあたしは。
いつの間にか眠っていた。
⸻
目が覚めた。
朝だった。
カーテンの隙間から光が差し込んでいる。
雨は止んでいた。
そして。
隣を見る。
悠也さん。
まだ眠っている。
「……」
寝顔を見る。
本当によく眠っている。
昨日。
夜中に起こしたのに。
文句も言わなかった。
怒りもしなかった。
優しい人だ。
ふと昨夜のことを思い出す。
握ってくれた手。
もう離れているのに。
まだ温もりが残っている気がした。
「ありがと」
聞こえないくらい小さな声で呟く。
⸻
キッチンへ向かう。
昨日買った食材を取り出す。
料理は嫌いじゃない。
むしろ好きな方だ。
今日は少しだけ頑張ろう。
好きな人のためだから。
目玉焼き。
サラダ。
トースト。
簡単なものだけど。
愛情はたっぷり込めた。
どんな顔で食べてくれるかな。
そんなことを考えるだけで楽しい。
⸻
「おはよー!」
我ながら明るい声だったと思う。
だって。
この人が朝一番に見る顔が。
今日だけはあたしなんだから。
少しくらい浮かれてもいいと思う。
朝ごはんも喜んでくれた。
「普通にうまいな」
その一言で。
朝から幸せになれた。
単純だなぁ。
自分でも思う。
⸻
そして。
帰る時間が来た。
本当は帰りたくない。
でも。
仕方ない。
玄関で靴を履く。
帰ろうとした。
でも。
どうしても聞きたいことがあった。
勇気を出す。
もし迷惑だったら。
もし今回だけ特別だったら。
そう思うと怖かった。
それでも。
聞きたかった。
「えっと……」
「ん?」
「また今度、その……」
胸が苦しい。
でも。
言わなきゃ。
「遊びに来てもいい……?」
⸻
少しだけ沈黙。
そして。
悠也さんは笑った。
「いいぞ」
その瞬間。
胸の中の不安が全部消えた。
「その代わり」
「うん!」
「次はベッド俺が使うからな」
思わず吹き出した。
「やった!」
また来ていいんだ。
嫌じゃなかったんだ。
それだけで十分だった。
「ベッドは途中でもぐりこむから大丈夫!」
「何が大丈夫なんだよ」
呆れた声。
でも。
少しだけ笑っていた。
⸻
マンションを出る。
空は晴れている。
昨日の嵐が嘘みたいだった。
足取りが軽い。
自然と笑顔になる。
また来ていい。
その言葉だけで。
しばらく頑張れそうだった。
またここに来られたらいいな。
また一緒にご飯を食べられたらいいな。
そんなことを考えながら。
あたしは家への道を歩いていくのだった。
⸻
――第二十六話 終わり。
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