弱いところ
マンションのエントランスに入った瞬間だった。
「すご……」
隣から小さな声が聞こえた。
「どうした?」
「いや……」
沙月ちゃんはキョロキョロと周囲を見回している。
「いいマンションすぎない?」
思わず笑う。
「普通だよ」
「普通じゃない!」
即答だった。
「エントランスがホテルみたいなんだけど!?」
「そうか?」
「そうだよ!」
エレベーターに乗り込みながらも落ち着かない様子だ。
「投資家怖い……」
「怖くない」
「お金持ち怖い……」
「そんな金持ちじゃないぞ」
「絶対嘘!」
元気に騒ぐ姿に少し安心した。
車の中で見せた緊張は消えているらしい。
⸻
部屋のドアを開ける。
「お邪魔しまーす!」
沙月ちゃんが入った瞬間。
固まった。
「……」
「どうした?」
「広っ!」
第一声がそれだった。
「一人暮らしなのに大きすぎない!?」
リビングだけでもかなり広い。
大きめのソファ。
テレビ。
ダイニングテーブル。
そして部屋の隅にはダンベルやベンチプレスなどの筋トレ器具。
「なにこのソファ!」
ぽふっと飛び込む。
「気持ちいい!」
「気に入ったならよかった」
「ユーチューバーの家みたい!」
「違う」
「投資ってそんなに儲かるの!?」
「聞けよ」
思わず苦笑する。
「趣味が麻雀くらいしかないんだよ。金のかかる趣味もないしな」
「へぇ~」
と言いながら既に別の場所を見ている。
聞いていない。
⸻
その時だった。
廊下の奥を見た沙月ちゃんが指を差す。
「あ、ここは?」
仕事部屋だった。
「仕事部屋」
「見たい!」
「ダメ」
「えー!」
「ダメ」
「彼女候補としては確認が必要かなって❤️」
「誰が彼女候補だ」
「まだ候補です!」
まったく悪びれない。
少しだけドアを開ける。
中にはモニターが何枚も並んでいた。
沙月ちゃんの目が丸くなる。
「秘密基地みたい……」
「仕事場だよ」
「なんかかっこいい」
興味津々の様子だったが。
「とりあえず風呂入ってこい」
話を打ち切る。
「雨でびしょ濡れだろ」
「あ、そうだった」
そして。
ニヤッと笑う。
「あ、一緒に入る?」
「入らない」
「即答!」
「タオルは脱衣所にあるから適当に使え」
「む~」
頬を膨らませながら風呂場へ消えていった。
⸻
一人になる。
静かになったリビング。
俺はソファに腰を下ろした。
そしてため息。
「あいつは俺にどうしてほしいんだよ……」
頭を掻く。
正直。
可愛い。
かなり可愛い。
それは認める。
今日だってそうだ。
二人きり。
俺の家。
泊まり。
普通なら意識しない方がおかしい。
だからこそ困る。
俺は三十一歳。
沙月ちゃんは二十一歳。
その事実はずっと頭の片隅にあった。
⸻
しばらくして。
風呂場のドアが開く。
「お先〜♪」
振り返った瞬間。
思わず言葉が止まった。
俺のTシャツ。
ぶかぶかだった。
肩が落ちている。
濡れた髪。
化粧のない顔。
そして。
見慣れない無防備さ。
「どう?」
くるりと一回転する。
「似合う?」
「……」
「なに?」
「いや」
俺は視線を逸らした。
「ほぼ普段と変わらないな」
沙月ちゃんが目を見開く。
「それ褒めてる?」
「褒めてる」
「化粧けなしてる?」
「違う」
「どっちなのよ!」
ケラケラ笑う。
いつもの沙月ちゃんだった。
少し安心する。
⸻
「俺も風呂入るから」
立ち上がる。
「部屋漁るなよ」
「はーい」
返事だけはいい。
絶対怪しい。
⸻
風呂から戻る。
案の定だった。
リビングにいない。
探すと。
怪しい人物が廊下をうろうろしていた。
「何してんだ」
「浮気チェック」
即答だった。
「何も出ないぞ」
「それを決めるのはあたしです」
偉そうだ。
「結果は?」
「白!」
なぜか満足そうだった。
「筋トレグッズと最低限の生活用品しかなかった!」
「それは光栄なことで」
「仕事部屋は入ってないよ!」
「偉いな」
「褒めて!」
「褒めてやる」
満足そうだった。
⸻
時計を見る。
もう深夜だ。
「そろそろ寝るぞ」
「はーい」
「沙月ちゃんは寝室使え」
「え?」
「ベッド広いし」
「じゃあ悠也さんは?」
「ソファ」
沙月ちゃんが不満そうな顔になる。
「一緒に寝ないの?」
「寝ない」
「つまんないの~」
「おやすみ」
「おやすみ」
そう言って寝室へ消えていった。
⸻
しばらく後。
俺はソファで横になっていた。
雨はさらに激しくなっている。
そして。
雷。
ドォン!!
建物が揺れるような音だった。
「すごいな……」
その時。
寝室のドアが開いた。
振り返る。
そこには。
枕を抱えた女の子が立っていた。
「……」
「どうした?」
今にも泣きそうな顔だった。
「ゆうやさぁん……」
小さな声。
「雷怖い……」
思わず笑いそうになる。
いつもの元気はどこへ行ったんだ。
「同じ部屋にいてやるから頑張れ」
「うん……」
トボトボと隣へ来る。
そして。
雷が鳴る。
ドーン!!
「ひっ!」
肩が跳ねた。
完全にダメらしい。
「平気じゃなかったのか?」
「平気だもん……」
ゴロゴロ……
「……」
ゴロゴロ……
「……」
ピカッ。
ドーン!!
「無理ぃぃぃ!」
ついに降参した。
俺は吹き出した。
「わかったわかった」
「怖いんだもん……」
「子供か」
「違うもん……」
そして。
おずおずと聞いてくる。
「手だけでも握っててくれない?」
その声は。
普段の沙月ちゃんからは想像できないほど弱々しかった。
俺は手を差し出した。
「これでいいか」
そっと握られる。
小さい。
細い。
そして柔らかい。
ぎゅっと。
離さないように握られた。
「ありがとう……」
その声から数分もしないうちに。
すうすうと寝息が聞こえ始めた。
安心したのだろう。
俺は苦笑した。
本当に。
手のかかる子だ。
でも。
その寝顔を見ていると不思議と嫌ではなかった。
むしろ。
安心する。
いつからだろう。
この子が笑っていると安心して。
落ち込んでいると気になって。
会えない日が少しだけ物足りなくなったのは。
気付けば。
それが当たり前になっていた。
答えはまだ出ない。
でも。
今この瞬間。
隣で安心して眠っていることが少し嬉しかった。
外では激しい雨が降り続いている。
けれど。
俺の心は不思議なくらい穏やかだった。
そんなことを考えているうちに。
俺もゆっくりと眠りに落ちていった。
――第二十三話 終わり。
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