第九話『寄り道』
季節は、
いつの間にか初夏へ変わっていた。
窓を開けていると、
少し湿った風が教室へ入り込む。
水族館へ行った日から、
真理亜とは以前ほど話さなくなっていた。
会えば会話はする。
でも、
どこかぎこちなかった。
会話として成立しているのかさえ、
怪しい。
プログラムのバグ処理をしているみたいな返事だった。
優李自身、
何が変わったのかはよく分からない。
ただ。
以前より、
真理亜のことを考える時間が増えていた。
授業中。
黒板を見ながら、
ふと校長室の光景が頭をよぎる。
『国家研究育成プログラム』
『君には適性がある』
『ミコトは間違えない』
優李は、
湿った空気を肺に取り込んで、
少し吐いた。
返事は、
まだしていない。
担任からは、
なぜ返事をしないのかと、
顔を合わせるたびに目で訴えかけられる。
そのたびに目を逸らすのは、
もはや毎日の日課だった。
窓際の席で、
真理亜が外を見ている。
湿った風が教室へ入るたびに、
長い黒髪が静かに揺れた。
出会った頃なら、
それだけだった。
でも今は、
その横顔が妙に気になってしまう。
一つ一つの仕草を、
以前の真理亜と比べて探していた。
昼休み。
クラスメイトたちは、
また適性の話をしていた。
「AI進学ランキング更新されたらしいぞ」
「法務省キャリア適合A+、
今年倍率やばいらしい」
「幸福指数、
去年より下がってね?」
「社会適合高ければ勝ちだろ」
「去年さ、
適合率低かったやつ転校したよな」
「再調整施設とか行ったんじゃね?」
「まあ、
社会適合低いと大変らしいし」
悪気のない声だった。
少し前までなら、
自分には関係のない世界の話だった。
測定されていなかっただけで、
本当は最初から、
自分もそちら側の人間だったのかもしれない。
優李は、
ぼんやり牛乳パックを飲み干す。
真理亜は、
少し離れた席でスマホを見ていた。
一瞬だけ、
目が合う。
でも、
真理亜はすぐに視線を逸らした。
見つめていたのがばれて、
少しだけ気恥ずかしかった。
放課後。
空には分厚い雲がかかっているが、
晴れ間も時々覗いていた。
雨は降っていない。
でも、
空気だけが湿っている。
帰る準備をしていると、
スマホが震えた。
【真理亜】
メッセージの内容に、
優李は少しだけ驚く。
『今日、
少しだけ寄り道しない?』
数秒、
画面を見つめる。
以前なら、
真理亜の方からそんなことを言うとは思わなかった。
『別にいいけど』
そう返してから、
少しだけ後悔する。
もっと違う返し方があった気がした。
校門を出ると、
真理亜が立っていた。
白いブラウスにかかった黒い髪が、
風に靡く。
「ごめんなさい」
真理亜が、
小さく言った。
「急に誘ってしまって」
「……別に」
二人は、
並んで歩き出す。
どこへ行くかは、
決まっていなかった。
それが少しだけ不思議だった。
真理亜は、
いつも最適な順路を決める側だったから。
「高キャリア育成プログラムは?」
優李が聞く。
「今日は休んだわ」
「いいの?」
思わず聞き返していた。
真理亜は、
少しだけ黙る。
「……分からない」
その返事は、
今までの真理亜らしくなかった。
二人は、
駅前の歩道橋をゆっくり歩く。
初夏の湿った風が、
街の熱を運んでいた。
途中、
小さな公園の前を通る。
子供たちの笑い声。
ブランコの軋む音。
ベンチでは、
母親たちの笑い声が重なっている。
五歳の適性診断の話でもしているのだろうかと、
優李はぼんやり思った。
その横で、
一匹の白黒の猫が寝転がっていた。
真理亜が、
足を止める。
優李は、
少しだけ驚いた。
「……この前の猫に似てる」
真理亜が、
小さく呟く。
猫は、
二人を見るとゆっくり目を開けた。
逃げない。
真理亜は、
一瞬だけ迷ってから、
しゃがみ込む。
そっと手を伸ばす。
猫は、
嫌がることもなく、
静かに目を細めた。
「……あったかい」
真理亜が、
本当に小さな声で言う。
優李は、
その横顔を見つめていた。
その時だけ。
真理亜は、
適合率とか、
アマテラスとか、
そういうものから少しだけ離れて見えた。
スマホが震える。
真理亜の表情が、
一瞬だけ止まる。
【推奨行動パターンから逸脱しています】
【感情変動を検知しました】
真理亜が、
普段の表情へ戻る。
【高キャリア育成プログラム 本日の欠席を確認しました】
画面の光が、
曇った空気の中で白く浮かんでいた。
真理亜は、
しばらくその通知を見つめる。
それから。
ゆっくりスマホをポケットへしまった。
優李は、
何も言わなかった。
空から、
小さな雨粒が落ち始める。
真理亜は、
猫を撫でたまま呟く。
「……少しくらい、
寄り道してもいいのかもしれないわね」
優李は、
その言葉に返事ができなかった。
ただ、
雨の匂いだけが静かに広がっていた。
(第九話『寄り道』 終)




