第八話『曇天』
水族館へ行った日から、
一週間が過ぎた。
季節は、少しずつ初夏へ近づいていた。
校庭の桜は、もうほとんど残っていない。
代わりに、淡い緑が街へ増え始めていた。
毎日なんでもない日を、繰り返していた。
授業を受けて。
昼休みを過ごして。
帰って眠る。
自分が時代に取り残されていたのを、
取り戻していると感じたのは
最初の数日だった。
それだけの毎日なのに、
少しだけ世界の見え方が違っていた。
優李の適性値について
騒いでいたクラスメイトたちも、
もうほとんど興味を失っている。
教室では、もう別の誰かの
進路適性の話が始まっていた。
周囲は、
何も変わっていないみたいだった。
でも、
優李だけが少し違っていた。
校長室で言われた言葉を、
時々思い出す。
『国家研究育成プログラム』
『君には適性がある』
『ミコトは間違えない』
肯定も、
否定もできないまま。
優李は、
まだ返事ができなかった。
こういう時は、
父親の遺伝を感じる。
ある週末の朝。
空は灰色の雲に覆われていた。
昨日までの青空が、
嘘みたいだった。
スマホが震える。
【真理亜】
『今日の降水確率は20%みたいだわ』
『折り畳み傘は、
たぶん必要ないと思う』
少しだけ不自然な文章。
でも、
以前より人間らしかった。
優李は、
少し迷ってからメッセージを打つ。
『今日、一緒に歩いて行く?』
既読がつく。
でも、
返事はすぐには返ってこなかった。
数十秒。
それだけなのに、
妙に長く感じる。
『……ごめんなさい』
『今日は、
車で向かった方がいいと思うわ』
少しだけ間が空いて。
『また雨が降るかもしれないから』
『……そっか』
優李は、短くそれだけ返した。
イヤホンを耳へ押し込む。
流行りの音楽が流れているはずなのに、
ほとんど耳へ入ってこなかった。
母親に「いってきます」と声をかけた。
返事を聞く前に、優李は家を出る。
音楽より、クラゲの青い光の方が、
まだ頭の奥に残っていた。
一方その頃。
真理亜は、
スマホを握ったまま立ち止まっていた。
灰色の空を見上げた瞬間。
【適合率85%】
デートの日の夜の数字が、
頭の奥をよぎる。
まるで呪文か、
教科書の定型文みたいだった。
家の前で送迎車を待っていると、
一匹の猫が座っていた。
白と黒の毛並みが、
曇った朝の光に照らされている。
「……かわいい」
小さく、真理亜は呟いた。
猫は、真理亜を見ると小さく鳴いた。
車の到着時刻まで、
あと三分。
寄り道をすれば、
遅れる可能性がある。
真理亜は、
一瞬だけ迷って。
結局、猫へ近づくことはできなかった。
猫は、一度だけ真理亜を見ると、
塀の向こうへ消えていった。
放課後。
ホームルームが終わる。
教室の窓の外では、
今にも雨が降りそうな空が広がっていた。
「今日、帰りどうする?」
優李が、なんとなく声をかける。
「カフェでも寄る?」
真理亜は、
一瞬だけ視線を止めた。
【適合率85%】
また、
数字が頭をよぎる。
「……今日は」
「高キャリア育成プログラムがあるの」
「だから、あまり遅くなれないわ」
行きたくないわけじゃない。
でも。真理亜自身、
どうすれば正しいのか
分からなくなっていた。
「そっか」
優李は、
それ以上聞かなかった。
真理亜を乗せた車が、
ゆっくり校門の向こうへ消えていく。
優李は、
しばらくその場に立ったままだった。
空は、
まだ雨を我慢しているみたいに重かった。
優李は、
イヤホンをつけたまま歩く。
でも、
ほとんど耳には入ってこなかった。
クラゲの青い光だけが、
まだ頭の奥に残っている。
家へ帰ると、
珍しく父親がリビングにいた。
テレビではニュースが流れている。
『国家AI研究機構、
社会人適合精度99.8%を達成』
画面の中では、
スーツ姿の研究者たちが拍手をしていた。
「最近、天音の娘といるらしいな」
父親が、テレビを見たまま言う。
「……別に」
「相手は選べ」
優李は、
少しだけ眉を寄せる。
「真理亜は、そういうやつじゃない」
父親は、
そこで初めて優李を見る。
「違う」
「問題なのは、
人間が数字で人を見るようになることだ」
少しだけ沈黙が落ちる。
「社会に適合することと、
幸せになることは違う」
優李は、
すぐには返事ができなかった。
真理亜の横顔が、
頭の中へ浮かぶ。
「……でも、
みんなそうやって生きてるだろ」
「俺だけ違う方が、おかしかったんだよ」
父親は、
何も言わなかった。
部屋へ戻る。
ベッドへ倒れ込む。
スマホが震える。
【真理亜】
『今日はありがとう』
少し間が空く。
『クラゲ、また見に行きたいわ』
優李は、
しばらく画面を見つめたままだった。
返事を打ちかけて、消す。
窓の外では、
雨が降り始めていた。
優李は、
結局返信をしないまま、
スマホを伏せた。
暗くなった部屋の中で、
クラゲの青い光だけが、
まだ頭の奥に残っていた。
(第八話『曇天』 終)




