第十話『補正』
送迎車が去ったあとも、
真理亜はしばらく家の前に立っていた。
雨上がりの空気が、
まだ少し湿っている。
指先には、
猫の体温が残っていた。
寄り道なんて、
今までほとんどしたことがなかった。
なのに今日は、
帰りたくないと思ってしまった。
真理亜は、
一度だけ来た道を振り返る。
優李はもう見えない。
それなのに、
胸の奥だけが妙に騒がしかった。
スマホが震える。
【感性指標の変化を確認しました】
【榊原優李さんとの適合率を再計算します】
真理亜は、
通知を閉じた。
結果は見なかった。
見るのが怖いと思ったのは、
初めてだった。
コンクリートの自宅が、
静かに佇んでいた。
玄関の自動ロックが解除される。
「おかえりなさいませ、
真理亜様」
「本日の感情状態を記録します」
真理亜は、
何も答えず廊下を歩いた。
足音だけが、
静かな家へ響いていく。
リビングへ入ると、
父親がタブレット端末を見ていた。
真理亜が入ってきても、
すぐには顔を上げない。
「今日は、高キャリア育成プログラムを
休んだそうだね。」
真理亜の足が、
一瞬だけ止まる。
「……はい」
「珍しいな」
父親の声は穏やかだった。
怒っているわけではない。
それが逆に、
少しだけ息苦しかった。
父親が、
タブレットを操作する。
「榊原優李くんとの適合率が、
再計算対象になったそうだ」
真理亜は、
小さく唇を噛む。
「感情変動は、
早めに補正した方がいい」
真理亜は、
俯いたまま何も言えなかった。
「……でも」
言葉が途中で止まる。
自分が何を言いたいのか、
真理亜自身よく分からなかった。
父親は、
静かな声で続ける。
「再適合カウンセリングを申請しておいた」
「週末に受けなさい」
まるで、
健康診断の日程を伝えるみたいだった。
真理亜は、
ゆっくり拳を握る。
猫の柔らかい毛並みが、
頭の奥をよぎった。
クラゲの青い光。
雨の匂い。
優李の声。
全部、
自分の中で静かに混ざっていく。
「……分かりました」
そう答えるしかなかった。
部屋へ戻る。
白い壁。
整いすぎた机。
閉じられたカーテン。
何もかもが、
正しく配置されていた。
ベッドへ腰を下ろす。
スマホが震えた。
【榊原優李】
真理亜の指先が、
少しだけ止まる。
URLが一つ送られてきた。
開く。
【高校生満足度92%】
【カップル継続率上昇】
【感情共有指数A】
夜景の見える展望施設だった。
優李は、
きっとこういう場所へ行ったことはない。
それでも。
『行ったことはないけど、
なんかデートっぽいぞ』
呟いてる姿が目に浮かんだ。
真理亜は、
少しだけ顔がほころんだ。
こういう時だけは、
AIって便利なんだなと思う。
少し前の自分なら、
絶対に選ばない場所だった。
少し間が空いてスマホが震える。
【榊原優李】
『今週末、
出かけない?』
真理亜は、
しばらく画面を見つめていた。
会いたくないわけじゃない。
むしろ、
会いたかった。
気づけば、
通話ボタンを押していた。
数秒後。
『……もしもし』
優李の声が聞こえる。
「お、おう」
少しだけぎこちない声だった。
沈黙が落ちる。
でも、
不思議と嫌じゃなかった。
『送ってくれた場所、
少し気になったわ』
「じゃあ行く?」
真理亜は、
小さく目を閉じる。
父親の声が頭をよぎった。
『感情変動は、
早めに補正した方がいい』
『……ごめんなさい』
『今週は、
少し難しいかもしれない』
「そっか」
優李は、
それ以上聞かなかった。
適合率が下がったことも。
再適合カウンセリングを受けることも。
自分が、
少しずつ“逸脱”扱いされ始めていることも。
優李は、
何も知らない。
『でも』
『また、
どこか行きたいとは思ってるわ』
少しだけ間が空く。
「……うん」
優李が、
少し笑った気がした。
電話を切ったあとも、
真理亜はスマホを握ったままだった。
五歳の頃から、
数字の中で生きてきた。
適性。
将来予測。
幸福指数。
最適相手。
間違えないように。
失敗しないように。
ずっと選ばれてきた。
でも、
優李は違った。
数字を見ない。
適合率も気にしない。
ただ、
わたしを見てくれる。
補正されたら、
最近少しずつ増えていた“もう一人の自分”が、
消えてしまう気がした。
(第十話『補正』 終)




