第六話『春嵐』
朝から風が強かった。
窓を打つ雨音で、優李は目を覚ます。
カーテンの隙間から見える空は、
鈍い灰色をしていた。
枕元のスマホが、小さく光る。
【真理亜適合率90%】
優李は、ぼんやりした頭のまま画面を開いた。
『今日は雨だけど、
自分で行く』
送信。
数秒後。
【真理亜適合率90%】
『分かった』
『週末の水族館、
楽しみにしてるわ』
優李は、その文章を少しだけ見つめる。
それから、
静かにスマホを閉じた。
「行ってきます」
「……行ってらっしゃい」
母親の声だけが返ってくる。
優李は傘を開いて、家を出た。
校庭の桜が、
風に煽られながら大きく揺れている。
薄桃色の花びらが、
雨水と一緒に道路の端へ流されていった。
教室へ入る。
湿った空気が、教室の中にこもっていた。
「おはよー
」
「ういっす」
そんな声が飛び交う中。
優李が席へ着こうとした時だった。
「なあ榊原」
以前、話しかけてきた男子生徒だった。
「ミコトの進路適性、
やっぱ研究90超えなんだろ?」
「医者も高かったって聞いたぞ」
周囲の視線が、一瞬だけ集まった。
「……誰から聞いたんだよ」
「え?普通にみんな知ってるけど」
悪気のない声だった。
別の男子がスマホを見ながら笑う。
「俺、営業適性60だったわ」
「幸福率72なら、まあ悪くなくね?」
「微妙じゃね?研究職の方が幸福値高いぞ」
「でも俺、アマテラス低いから結婚無理だわ」
「終わったな」
笑い声が広がる。
みんな、
数字の話をしていた。
将来。
恋愛。
幸せ。
まるで、
人間そのものを点数に変えたみたいに。
自分の人生が、
知らないうちに共有されている気がした。
間違っているとは思わなかった。
でも。
どこか息苦しかった。
窓の外では、
風に煽られた桜がまた散っていく。
昼休み。
担任が教室へ入ってきた。
「榊原」
教室の空気が、
少しだけ静かになる。
「放課後、校長室へ来い」
「……わかりました」
後ろの方で、
「やっぱ国家研究コースじゃね?」
そんな声が聞こえた。
優李は、静かにスマホを開く。
【真理亜】
『今日は少し遅くなる。迎えはいらない』
送信。
いつもなら、
数秒で返信が来る。
でも。
既読は、つかなかった。
雨脚がさらに強くなる。
窓ガラスを叩く雨音だけが、
やけに耳に残った。
二時間後。
授業が終わる直前。
スマホが小さく震える。
【真理亜】
『分かったわ』
短い文章だった。
でも。
なぜか少しだけ、その返信が遅かった理由を考えてしまう。
放課後。
職員室の奥。
校長室には、担任と校長が待っていた。
「座ってください。」
校長は穏やかに笑う。
「榊原くんほどの適性値は、ここ数年でも珍しい」
「国家研究育成プログラムへの推薦も、十分に視野に入る」
担任も頷く。
「学校としても、
全面的に支援したいと思っている」
「ミコトに間違いはない」
「君には、
適性があるんだ」
優李は、小さく視線を落とす。
期待されている。
それは分かった。
でも。
その言葉のどこにも、
“自分”はいない気がした。
「……今は、まだ決められません」
一瞬だけ、
部屋の空気が止まった気がした。
窓の外では、
春の嵐がまだ続いている。
「不安なのは分かる」
校長は、優しい口調で言った。
「だが、ミコトは間違えない」
その言葉だけが、
妙に長く耳に残った。
面談が終わる頃には、
雨があがっていた。
校舎を出る。
濡れたアスファルトが、
夕焼けを鈍く反射している。
雨上がりの風だけが、
まだ春の匂いを残していた。
校門へ向かう。
その時だった。
黒い送迎車が見える。
その隣に、真理亜が立っていた。
雨上がりの夕焼けが、濡れた黒髪を赤く染めている。
優李は、
一瞬だけ立ち止まった。
「……迎え、いらないって言ったけど」
真理亜は、少しだけ沈黙して。
「うん」
それから。
「でも、待っていたかったから」
雨上がりの風に、
桜の花びらが真理亜の肩へ落ちる。
優李は、
なぜかその花びらから目を離せなかった。
(第六話『春嵐』 終)




