第五話『正解』
カフェで口にした甘さだけが、
まだ少し舌に残っている気がした。
送迎車が、静かに減速する。
窓の外には、
灰色のコンクリートが広がっていた。
打ちっぱなしの外壁。
直線だけで構成された庭。
等間隔に並ぶ観葉植物。
天音家は、
今日も静まり返っていた。
真理亜は、玄関の扉を開ける。
靴下のする音だけが、
広い廊下へ静かに響いていた。
家の中には、生活の匂いがほとんどない。
壁には、
幾何学模様みたいなアートが飾られている。
真理亜は、自室へ向かおうとして。
「真理亜」
後ろから声をかけられた。
振り返る。
リビングの奥。
大きなガラス窓の前で、
父親がタブレットを見ていた。
天音 恒一。
国家AI研究機構、主任研究責任者。
「榊原優李くんとは、うまくいっているか?」
視線はタブレットへ向けたまま。
まるで確認事項みたいな口調だった。
「……はい」
「そうか」
父親は静かに頷く。
「アマテラスの適合結果も、
かなり良好だった」
真理亜は、小さく視線を落とす。
その瞬間。
『楽しみってある?』
優李の声が、頭の中に浮かんだ。
胸の奥が、
少しだけざわつく。
理由は、自分でもよく分からなかった。
「……お父様」
「なんだい」
「“楽しい”って、
どういうことなんでしょうか」
父親は、少しだけ考えた。
それから、
穏やかな声で言った。
「間違わないことだよ」
真理亜は、黙って父親を見る。
「人生は、
○×クイズみたいなものだ」
「正しい選択を続ければ、
人は不幸にならない」
「だからAIがある」
「だから私たちは、
ミコトに頼って社会を発展させてきた」
父親は、静かな口調のまま続ける。
「昔は、テレビをつければ悪いニュースばかりだった」
「犯罪、自殺、戦争。
停滞した経済」
「“間違える自由”は、
多くの人を不幸にしたんだ」
「君たちの世代は、
私たちより幸せになれる」
父親の目からは、
真っ直ぐな信念が感じられた。
きっと、
本気で世の中を良くしようとしてきたのだと思う。
「……はい」
真理亜は、小さく頷いた。
でも。
胸の奥に残ったざわつきだけは、
消えなかった。
自室へ戻る。
白い机。
整った本棚。
必要なものしか置かれていない部屋。
窓際には、
中学まで置かれていたクマのぬいぐるみの跡だけが残っていた。
時計の音だけが、
静かな部屋に響いていた。
真理亜は、
制服のまま椅子へ座った。
スマホの画面を開く。
検索欄へ、
ゆっくり文字を打ち込んだ。
『楽しい』
大量の検索結果が表示される。
幸福。
娯楽。
満足感。
どれも、
間違ってはいなかった。
でも。
どこにも、
この感情の名前は載っていなかった。
その時。
スマホが震える。
【優李】
『今日、ありがと』
短い文章だった。
でも。
その画面を、
真理亜は、しばらく見つめていた。
(第五話『正解』 終)




