2 虎燈①
気付いたときには一人だった。
何度も市場の物を盗んで腹を満たしていたから、もう市場に近付くこともできやしない。
酷い飢餓感で、歩くことさえできない。
俺は裏小路の木壁に体を預けていた。
「お前、どうしたんだ?」
弾んだ声に顔を上げれば、同じくらいの年の少年が立っていた。
白い歯を見せて笑うそいつは暁と名乗った。
不自然な人懐こさが逆に不気味に見える。
(なんだ、こいつ。気味悪いな)
暁は無視する俺に構わず話しかけてきた。
「今日は飯の調達に行かないのか?」
「……俺が誰だか分かってて話しかけてんのか?」
「あぁ。お前、ここらじゃ有名人じゃん。盗み常習犯の虎燈くん」
「分かってんなら話しかけてんじゃねーよ。……お前も仲間だと思われるぞ」
暁は微笑みを浮かべると俺に手を差し出してきた。
「そんなところで座ってないで、俺と一緒に行かないか?」
「……どこにだよ」
そうして暁に付いていったのは、ただ単に腹が減りすぎて思考が狂っていたからだ。
決して孤独に負けそうになっていたからではない。
***
「きゃはははは。ほら、虎燈! お前はあいつな!」
「おうよ」
逃げ惑う敵を追いかける。目的は殲滅。
暁と出会ってから二年。
骨の浮き出ていた俺の体は、今ではしなやかな筋肉がついている。体が軽い。
あの日、暁に連れて行かれたのは、いかにも金持ちが住んでいそうな豪邸だった。
「まず食え」
そう言われて出された飯を一心不乱にかきこんだ。
味なんて分からないまま、ただ胃袋に詰め込んでいく。と、今度は激しい吐き気に襲われて、全て吐いてしまった。
呆然と吐物を見つめる俺に、暁が笑いながら言う。
「何やってんだよ、そんな一気に腹に入れるからそうなるんだよ。ゆっくり食べろ。って、まだ食えそうか? 一回休むか?」
暁は俺の背中を擦りながら、もう一方の手をあげて、老婆を呼んだ。吐物を片付けさせる。
「……一回水くれ」
今度は、ゆっくりと噛んで飲み込む。胃袋に意識を向けながら慎重に食べ進める。ふぅと息を吐いたところで、暁が口を開いた。
「虎燈、お前うちの子にならないか?」
「……は?」
「このとおり、俺ん家は人いっぱい雇ってんだ」
暁が今いる広間を示すように両手を広げた。
その両手に釣られるように辺りを見渡せば、確かに広間に長い机がいくつも並んで、そこに収まりきらないほどの人がいた。
「いっぱい雇ってるから、なんだよ? それと俺がどう繋がるって言うんだ?」
「お前、腹減って盗みやってたんだろ?」
「……なんでそれを」
「そりゃ分かるさ。食いもんしか盗まねんだから。市場のやつらもみんな分かってたはずだぜ」
一瞬で頭に血が上った。
(分かってんなら、食いもんくらい分けてくれたって……)
「今、『分かってんなら、食いもんくらい分けてくれたって』って思ったか?」
思ったことを正確に言い当てられ、ぐぅの音もでない。
(相手はこんな子供なん……)
「自分は子供なんだからって?」
「……おめぇ、怖ぇーよ」
うっすら笑みを浮かべながら喋る暁が不気味だった。
(表情と言葉と年が、すべてが、ちぐはくだ)
「いいか、虎燈。世の中、子供だからって赦してくれるほど甘くはない。子供だろうが大人だろうが、飯が食いたきゃ働くしかねぇ。そして、子供が稼げる仕事もそうはない」
不気味な奴ではあったが、言っていることは理解できる。
「……お前ん家なら、俺でも稼げる仕事があるって言いたいのか」
「そういうことだ」
爽やかに笑う暁に、背中が冷えた。
俺はもう、引き返せない所に来ている。なぜだか、そう思った。
「……仕事って?」
爽やかな笑顔のままの暁が、親指を立てた。
親指を自分に向けたまま首元を切るように横に滑らせる。
「タンッ」と舌を鳴らし、そのまま親指を地面にむけた。
「殺し屋だよ」
周りを見れば人の良さそうな大人ばかり。ここにいる奴らが、みんな殺し屋とはとても思えなかった。
「みんなそんな風に見えないだろう?」
暁の視線に答えて頷くことしかできない。
「殺し屋がみんな強面だと思うな。むしろ、こういう奴らの方が向いてる」
暁の射貫くような視線から目が離せない。
「いいか、虎燈。仕事を早く片付けるには、敵に警戒心を持たせてはいけねぇ。いかに相手の懐に入り込むか、だ。そうすると……」
言いながら暁は口笛を吹き、人差し指を立てたまま、ゆっくり下へ落とす。腰のあたりで拳を握り、上に向けて開いた。
「分かるだろう?」
目の前にいるのは俺と同じくらいのガキだ。それなのに薄ら寒さを感じる。
(逃げたい……)
俺は、努めて余裕そうに笑った。だが、その笑顔の歪みにも自分で気付いていた。
――腹の奥から湧き出る焦燥が、黒い靄に飲まれていく。
「ははっ、なんで俺が……」
「お前ならできるからだよ」
「さっき会ったばっかのお前に、俺の何が分かるって言うんだ」
歪んだ笑顔を向ける暁の瞳に闇色が見えた気がした。
「俺は、お前以上にお前のこと分かってる」
短刀を出した暁が自身の人差し指に傷をつけた。
血が滲むその指は、生ぬるい温度を保ったまま、俺の額に押しつけられた。
――黒い靄しか見えない。




