第九十四話 聞こえなかった言葉
翌朝、ユリウスが公爵邸から戻ると、写しの束のほかに封筒が一通あった。
アレクシスの字だった。
前の人生の最後の日の記録に、書き足したいことがある。冊子を作った日に、君があの日の欄に、聞こえなかった、と書いたのを覚えている。昨夜、君からの一行を待つあいだに、その欄がまだそのままだと気づいた。広場で、俺が何を言ったか。紙に書けば一行で済む。だが、一行で渡していいことだとは思えない。条件の三にある、書面では難しい聞き取りとして、短く会えないか。決めるのは君だ。
リディアは手紙を二度読んだ。
広場。足元の光。人の流れに逆らってくる彼。口が大きく開いていた。言葉は一つも届かなかった。
冊子のあの日の欄には、自分の字でこう書いてある。何かを叫んでいた。聞こえなかった。
「行くの」
ユリウスが尋ねた。
「行きます。二人で必要だと決めた聞き取りなので」
リディアは返事を書いた。今日の昼の鐘のあと、面会室で。席を離して、短く。
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公爵邸の面会室の扉の前に、ローランが立っていた。
「中に、閣下がいます。俺は扉のところにいます。終わったら声をかけてください」
「ありがとうございます」
面会室は細長かった。長い卓の両端に、椅子が一つずつ置いてある。アレクシスは奥の椅子に座っていた。リディアが入ると、立ち上がりかけて、座り直した。
卓の長さの分だけ、二人のあいだが空いていた。
リディアは手前の椅子に座って、冊子を開いた。前の人生の最後の日の欄。
「書き足してください。私が書きます」
アレクシスは卓の上で手を組んだ。しばらく、組んだ指を見ていた。
「あの日、俺は君の方へ走っていた。光が足元から上がってくるのが見えた。間に合わないと分かった」
「はい」
「それで、叫んだ」
彼は顔を上げた。卓の端から端まで、まっすぐにこちらを見ていた。
「もう一度だけ、俺にやり直させてくれ」
リディアのペンが止まった。
白い光の手前の、あの顔が浮かんだ。崩れたことのない顔が崩れて、口が大きく開いていた。届かなかった声の形が、今、卓の向こうから言葉になって来た。
指先が冷たくなった。ペンを置こうとして、置かなかった。
「誰に向けて言ったのかは、分からない。君にか、術にか、自分にか。死んだ時のことは、どの人生のも消えない。だが、自分が何を言ったかまで覚えているのは、あの日の、あの言葉だけだ」
面会室が静かになった。扉の向こうで、ローランが靴を一度鳴らした。
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「前に、毎回自分で選んだと言いました」
リディアは言った。声が少し掠れた。
「あの日も、そうだったんですね」
「そうだ」
アレクシスは目を逸らさなかった。
「昔の君に、覚えていてと頼まれた。それは本当だ。だが、頼まれたから戻ったんじゃない。君のいない明日を、俺が受け入れられなかった。だから、選んだ。あの日も」
「どうして、今日、話そうと思ったんですか」
「冊子のあの欄は、聞こえなかった、のままだ」
彼は冊子の方を見た。
「俺は、何を言ったか知っている。口に出せば、あの日が本当にあったことになる気がして、言えなかった。だが、君が自分で読んで、自分で書いてきた欄だ。空けたままにしておきたくなかった。紙に一行ずつ書いているうちに、言える気がした」
あの日、届かなかった言葉。十年のあいだ一度も聞かなかった大きな声で、彼はそれを叫んでいた。
しばらくしてから、リディアは冊子の欄に書き足した。もう一度だけ、俺にやり直させてくれ。
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「聞けて、よかったです」
リディアは顔を上げた。
「でも、あの十年を許すのは、まだです」
「分かっている」
「それから」
リディアは冊子を閉じて、膝の上に置いた。
「あなたは、やり直すことを選んできました。何百回も。でも、私は、もうやり直さなくていい終わり方がほしいです。今度は、やり直すより、二人で生きて終わらせたい」
アレクシスは長いあいだ黙っていた。
卓の上で組んでいた指が、ゆっくりほどけた。
「俺も、そうしたい」
低い声だった。
「やり直すのは、もう嫌だ。君が死ぬのを見て、また朝に戻るのは。君に合わせて言っているんじゃない。俺がそうしたい」
リディアは頷いた。
それから、鞄から昨日の頁の写しを出した。目的の一行と、採らない案の三行。卓の真ん中まで滑らせると、彼が手を伸ばして受け取った。指先は紙の端にしか触れなかった。
アレクシスは頁を読んだ。最後の行で、目が止まった。私だけを対象にして、私を消すことで閉じる案。
「これは、採らない」
「採りません」
「なら、俺の方の行も足しておいてくれ」
彼は写しを卓に置いて、自分のペンで書き足した。俺だけを対象にする案も。
リディアはその字を見た。少し右へ傾いた、彼の字だった。
「読みの方は、どうだ」
「順位の項の、太い線の続きを追っています。明日の昼までに、一つは答えを出します」
「明日の昼、ここで」
「はい。見直しの日です」
帰りの馬車で、リディアは冊子を膝に載せたまま、窓の外を見ていた。
彼のいない明日も、自分の望みではない。
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