第九十三話 二人ともを目的にする
朝の鐘のあと、ユリウスは写しの束を紐で括って、研究室を出ていった。
昨日までの読みの結果と、終端の写しの番号の控え。その上に、リディアの短い添え書きを一枚。順位の項の線について、見覚えがあれば教えてください。見覚えがあるだけのものは、そう書いて。
戸が閉まると、作業台の端の椅子が目に入った。
昨日まで、読み合わせのたびに彼が引いてきた椅子だった。今朝は誰も動かしていない。作業台から少し離れた位置に、背もたれをこちらへ向けて置いてある。
リディアは写しを広げかけて、手を止めた。
食卓の空席を思い出した。十年、向かいの椅子は空いていた。朝も夜も、そこに誰も座らないことを確かめてから、自分の皿に手を付けた。
似ている、と思った。胸のどこかが同じ場所で冷えている。
けれど、同じではなかった。
あの頃は、空いている理由を誰も言わなかった。今は、自分が理由を書き、見直す日を書いた。束は今、公爵邸へ向かっている。昼には返事が来るかもしれない。
リディアは椅子から目を離して、写しを広げた。
---
ユリウスが戻ったのは、昼の鐘の少し前だった。
「返事、もらってきた」
封のない紙が一枚。アレクシスの字で、短い行が並んでいる。
順位の項の三本の線。前の人生で見た形と同じかどうかは、分からない。見覚えだけ。それとは別に、太い一本の始まりが、上の方の項から引かれているように見える。読めないので、形だけ。
リディアはその行を写しの順位の項と並べた。
太い一本の線は、確かに上へ伸びていた。升の横で終わっているように見えたのは、石の割れ目のせいで、写しの上では白く抜けている。
「割れ目の向こうに、続きがあるかもしれません」
「形だけ、って書いてあるけどね」
ユリウスは紙を覗いた。
「形が見えてる人の形だけ、は、案外ばかにならない」
リディアは紙の端を指でなぞった。訂正の線は一本もなかった。行と行のあいだが広く取ってある。言葉を選んで書いたように、リディアには見えた。読めない式を前に、彼は形だけを、形だけだと断って書いてきた。
---
午後は、終端術式を頭から終わりまで、式のまま追った。
保留の負担を指す。今の持ち主を指す。移す先を、起点の対象に指定する。負担が戻ったところで、回帰を閉じる。
項を一つずつ指で押さえながら、リディアは同じ問いを当てていった。この項のどこかで、二人が生きたまま残る道はあるか。
なかった。
移す先の升は、人を指す字しか受けない形になっている。起点の対象へ戻せば彼が死ぬ。ほかの升へ向ければ、負担はまた誰かの上に乗る。閉じる項は、負担が人の上で落ち着いたことを確かめてから働く。
「二人とも残すには、移す先が人でない何かでないといけません」
リディアは言った。
「でも、この式には、人のほかに受け取るものの書き方がない」
ユリウスは黙って、最後の一枚を引き寄せた。
閉じる項は、それだけで完結していた。その下に、広い余白があった。石の写しの上では、ただ線のない場所に見える。けれど、余白の左端に、項の頭に付ける短い印だけが一つ刻まれていた。印のあとには、何も続いていない。その斜め上に、あの開いたままの図形がある。
「ここ」
ユリウスは印を指した。
「項を始める印だけあって、中身がない。書き損じなら印も消すよね。消してない」
リディアはその余白を見つめた。
ここに何を書こうとしたのか。書けなかったのか、書かなかったのか。前の自分が別の答えを考えたのかどうかは、この印だけでは分からない。
リディアは帳面に、印の位置だけを書き留めた。
---
夕方、リディアは帳面の新しい頁を開いた。
頁の頭に、一行書いた。
目的。二人とも生きたまま、回帰を終わらせる。
その下に、線を一本引いた。
採らない案。起点の対象へ戻す終端。私を還す還元。それから、もう一行足した。私だけを対象にして、私を消すことで閉じる案。どんな形でも。
ユリウスが頁を覗いて、最後の行で目を止めた。
「それ、誰かが言い出したの」
「誰も言っていません」
リディアは答えた。
「でも、二つのうちどちらも採らないと決めたら、次に出てくるのはそれだと思うんです。私が負っている死なら、私の中で片づければいい、と。だから、先に書いておきます」
「どちらかを救う、じゃなくて」
「二人ともです。どちらかを救う研究は、もうしません」
ユリウスは頷いて、自分の帳面の頭にも同じ一行を写した。
夜の鐘の頃、伯爵邸の自室で、リディアは便箋に一行書いた。無事です。目的を一つに書き直しました。
使いが出ていくと、リディアは寝支度をして髪を解いた。灯りを落とそうとした頃に、返事が届いた。こちらも無事だ。書き直したものを明日読ませてほしい。
リディアは帳面を開いて、夕方の頁を見下ろした。目的の行の下の、閉じる項の写し。その下の、印だけの余白。
欠けているのは、二人ともを残す行だ。




