第九十二話 愛し合ってはいけない
夕の鐘が鳴り終わる頃、リディアは公爵邸の書斎に入った。
窓際の卓に、アレクシスが二枚の紙を並べていた。昼に交わした条件の、彼の側の控えと、自分の手紙。どちらにも、二人の名が入っている。
引き継ぎは短く済んだ。終端と北の層二の写しは、読みの途中に印を付けてユリウスに預ける。冊子は自分が持っていく。見覚えのある線や思い出したことは、彼が紙に書いて送る。
「見覚えがあるだけのものは、そう書いて」
「書く」
それで、決めることはなくなった。
アレクシスは卓の上の条件の紙を指で揃えた。揃え終わっても、手を離さなかった。
「手紙に、俺の怖さも考えて選んだ、と書いてあった」
「はい」
「俺が離れろと言っていたら、君はどうした」
リディアは少し考えた。
「理由を聞いて、いつ見直すかを聞いて、それから決めたと思います。命じられたまま、何も分からずに離れるのは、もうしません」
「前の人生のようには」
「はい」
アレクシスは目を伏せた。
「そうだな」
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書斎が静かになった。窓の外で、庭の灯りが一つずつ点いていった。
「一つ、言っておくことがある」
「はい」
「愛し合ってはいけない」
リディアは息を止めた。
「少なくとも、分かるまでは。三日で分かるとは思っていない。その先も、分からないままかもしれない。それでも、君を想うほど君が死ぬのなら、俺はそれを止めなければならない」
言葉と言葉のあいだに、昨夜より長い間があった。紙を押さえた指が、白くなっていた。
リディアは膝の上で手を組んだ。
頷けば、彼は楽になるのかもしれない。三日のあいだだけでも。
「それには、頷けません」
アレクシスの目が、こちらへ動いた。
「昼に二人で名を入れた紙には、気持ちを抑えるための取り決めではない、と書きました。今のは、あの紙に足すつもりの言葉ですか」
アレクシスは答えなかった。条件の紙の、二の行を見ていた。
長い沈黙のあとで、彼は言った。
「……足すつもりはなかった。だが、言わずにいられなかった」
それから、ゆっくり手を離した。
「昼の約束を越えかけた。取り消す。条件としては」
取り消す、と彼は言った。怖い、とは言い直さなかった。リディアには、その方がかえって本当のことに聞こえた。
「怖いのは、取り消さなくていいです」
リディアは言った。
「今の言葉は、あなたの怖さから出た言葉として聞きました。でも、条件は昼のままにします。近さが条件かどうかも、気持ちが条件かどうかも、まだ分かりません。分からないものを、先に消すことはしません」
リディアは顔を上げた。
「私があなたをどう思っているのか、まだ全部は言葉にできません。でも、それを三日で、なかったことにするつもりはありません」
アレクシスは長いあいだ、何も言わなかった。
「……三日目の昼だな」
やがて、彼は言った。
「はい。見直しの日です。それより前でも、結果が出たら知らせます」
「夜の鐘の頃に、一行」
「あなたも」
「書く」
三日、と口にすると短かった。けれど、昨日まで読み合わせのたびに作業台の端にあった椅子が、明日からは空く。その椅子を空けると決めたのは、自分だった。
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リディアは冊子を開いたまま、彼を見た。
「私は、あなたを死なせない式を探します。終端のままの式ではなく、別の答えを」
リディアは条件の紙を引き寄せて、四の行の下に一行足した。
三日目に会うかどうかは、距離を続ける根拠の見直しで決める。式が完成したかどうかでは決めない。
アレクシスはペンを受け取って、その行の横に名を書いた。彼の控えにも、同じ行を書き写した。書き終えても、しばらくペンを置かなかった。
リディアは冊子を閉じた。
戸口で、アレクシスが一度だけ手を上げかけた。その手は、こちらへ届く前に止まって、扉の取っ手へ移った。
リディアは、その手を見ていた。取っ手に掛かった指が、すぐには動かなかった。
「気をつけて帰れ」
「はい。三日目に」
扉が閉まった。
伯爵邸に戻ると、夜の鐘が鳴っていた。リディアは自室の机で、便箋に一行だけ書いた。無事に帰りました。
使いが出ていってから返事が届くまで、窓の外の灯りを数えて待った。
こちらも無事だ。その下に、もう一行。明日からも。
リディアはその紙を帳面に挟んで、新しい頁を開いた。順位の項の、線の太さから読み始めた。




