第八十九話 死が移る
読み合わせは、翌朝の鐘のあとに始まった。
研究室の作業台に、写しが三列に並んだ。北の奥の層三と層二。その脇に並ぶ揃った字の行。それから、兄の側と同じ番号を振った終端術式の写し。
アレクシスは約束どおり来ていた。作業台の端に椅子を引いて、少し離れたところから写しの列を見ている。
「起点の対象へ戻す、の行から読みます」
リディアは印を付けた行に指を置いた。
終端の操作は、短い項がいくつか連なってできていた。保留の負担を指す項。負担の今の持ち主を指す項。移す先を指す項。その最後に、閉じる項。
「この、今の持ち主の項」
ユリウスが北の写しを一枚引き寄せた。
「揃った字の行の書き方と同じだね。保留の負担、誰々から誰々へ。あれの、誰々のところ」
リディアは二つを並べた。字の形が同じだった。揃った字の行が記録として書いているものを、終端の項は操作として書いている。
「今の持ち主の項には、名の入る升が一つしかありません」
リディアは指で升を押さえた。
「移す先の項にも、一つ。それから、移したあとに元の升を空ける線が引いてあります。この式の形では、負担を持てるのは一度に一人です」
「記録の方は?」
「北の記録にも、この終端の写しにも、二人に分けて乗っている行はありません。読めた範囲では、一人に乗っていて、その人が確保の事件や崩落を生きて越えた時に、次の人へ移る」
「で、終端は、その次の人を式で決めてしまう」
「はい。だから、ふだんの移り方なら、次が誰になるかを決める項がどこかにあるはずです」
リディアは移す先の項の下を指した。小さな表のような線の組みがある。名の入る升が縦に三つ。それぞれの横に、太さの違う線が一本ずつ。
「たぶん、これです。結びつきの強さの順。越えた本人を除いて、いちばん強い人へ移る。そう読めます。ただ、線の太さの読み方が、まだ分かりません」
ユリウスが升を数えた。
「三つ。君と、彼と、君のお兄さん」
「名前は入っていません。升が三つあるだけです」
窓際から、アレクシスが言った。
「その、太さの違う線」
二人が振り向いた。
「前の人生で、見たことがある気がする。どこでかは分からない。見覚えがあるだけだ」
「見覚えがあるだけ、と書きます」
アレクシスは頷いて、また写しの列に目を戻した。
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二日目からは、彼の冊子を並べた。
公爵邸の書斎で埋めてきた、罫だけの冊子だった。病の冬。研究棟の事故。傾いた甲板。終わり方の記録が、確かさの欄と一緒に並んでいる。
彼が覚えている人生は、記憶を委ねられたあとのものだ。北の記録の後ろの方では、負担の行は自分の名に付いたまま動いていなかった。
「冊子の方からも、同じことが言えるか確かめます」
リディアは言った。
「私が、越えられずに死んでいるかどうか」
一行ずつ読んだ。病の冬は、熱が引かないまま終わっている。研究棟の事故は、光の中で終わっている。船は、甲板が傾いて終わっている。越えた、と読める行は一つもなかった。
四つ目の行で、ペンが止まった。
確保の追手。別の通路へ逃げた。その冬のうちに、病で死亡。
「ここを、詳しく聞かせてください」
アレクシスは冊子を引き寄せた。
「旧い倉庫街だった。確保の側の者に追われた。俺が君の手を引いて、裏の通路へ入った」
「追ってきた人は、術を開いていましたか」
「通路の戸を閉める前に、振り返って見た」
アレクシスは冊子の行から目を上げなかった。
「確保の側の者は、術を開く時に足を止める。地へ手を向けて、線を引く。前の人生で、何度も見た構えだ。追ってきた三人は、三人とも走っていた。手は空いていた。戸を閉めて、閂を下ろした。そのあとは、戸を叩く音と声だけだった」
「確かさは」
「戸を閉めるまで三人が走っていたのを見たことは、高い。戸の向こうで何があったかは、知らない」
リディアは冊子の横の紙に、彼の言葉を確かさごと写した。その下に一行あけて、解釈を分けて書いた。移動の例には数えない。
「同じ冬に死んでいるから、逃げた時には移らなかった。そうは書きません」
ユリウスが頷いた。
「あとで死んだから先送りだった、って決めたら、どんな逃げ方も先送りになっちゃうもんね」
研究棟の事故の行は、光がいつ立ったのか、自分がどこにいたのかを彼が言えなかった。リディアはそれを未判定の欄へ移した。
冬の行の一つに、小さな印が付いていた。冊子を作った日に、彼が黙ったところだった。
「ここは、続きを聞いてもいいですか。止めても構いません」
アレクシスは印を見ていた。
「話す」
少し間があった。
「代わろうとした冬だ。自分の命と引き換えにする手立てを、整えかけた。整う前に、君が死んだ」
リディアはペンを握り直した。それから、書いた。アレクシスによる代替の試み。実行の前に、リディアが先に死亡。
二日分の行を並べ終えると、どの行も、死が自分の側にあったという北の記録と矛盾しなかった。
その下に、リディアは二行足した。覚えているのは終わり方が多く、ふだんの日は薄い。冊子にない人生が、いくつあるかは分からない。
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四日目の昼、リディアは紙を一枚取って、二つの欄を作った。
左に、層二の注記にあった確保の事件。確保の術式が発動し、最後の出力が放たれ、防護がそれを遮ったまま出力が尽きた。彼は生きていた。負担は移った。
右に、倉庫街。確保の構えが見えないまま逃げた。候補の規則で読めば、移らない側に入る。
「ねえ」
ユリウスが左の欄を見ていた。
「防護じゃなくてもいいの。たとえば、もう放たれた術の前から、騎士が誰かを引きずり出して、その人が生き残ったら。それも同じ?」
「北の記録の書き方では、同じに読めます」
リディアは答えた。
「問題は、どうやって助けたかではなくて、発動した死の働きを、その人が生きて越えたかどうかです。崩落の時も、防護はありませんでした。彼が石を防いで、落ちるのが止んで、二人とも生きていた」
「じゃあ、それが決まり?」
「決まりの候補です。北にある例は、二つだけです」
リディアは帳面に書いた。移動の条件、候補。救う手段は問わない。順位の項との照合、未了。
「じゃあ、路地は」
ユリウスが言った。
「今の人生の。あれも確保の型だったよね。君は線に寄られて、団長に運び出された」
リディアは騎士団から回ってきた路地の写しを開いた。目地に刻まれた二重の円と、内へ向かう短い線。
「あの光は、私のつま先の手前で止まりました。捕まえる段の線です。写しの範囲には、最後の出力を放つ項がありません。層二の確保の事件で防護が遮ったのは、その最後の出力です」
「捕まる前に離れた、ってこと」
「はい。死の働きを生きて越えた例には、数えません」
リディアは右の欄の下に、今世の路地を書き足した。
それから、冊子に足した行を指した。街の中で回収の型に捕まり、膝まで光が上がったところを彼が線を切って引き出した人生。
「こちらは、最後の出力まで進んでいたかが分かりません」
窓際で、アレクシスが首を横に振った。
「線を切ることしか見ていなかった」
リディアはその行を未判定の欄へ移した。
それから、二つの欄をもう一度見た。
移った例は、二つとも二人が同じ場所にいた。確保の時は、自分が組んだ防護で彼が生き延び、死は彼から自分へ移った。崩落の時は、彼が自分を引き出し、死は自分から彼へ戻った。
近くにいたから助けられたのか。近くにいること自体が、移るための何かの条件なのか。二つの例だけでは、どちらとも言えない。
ただ、移った向きは一度目と二度目で逆だった。どちらの時も、死んだ者はいない。
リディアは、その二行も書いた。近さ、気持ち、どちらも移動の条件とは断定できない。移動と死期は、分けて調べる。
窓際で、アレクシスが紙の欄を見ていた。何も言わなかった。




