第八十八話 完成させるために
兄を測った翌日の朝、リディアは公爵邸の書斎で、終端術式の写しを机に広げた。
アレクシスは向かいに座って、写しを見ていた。読めない式を線の形だけ追っている目だった。
「前に書いてくれた、終わらせる方法。たぶん、これです」
リディアは、起点の対象へ戻す、と書かれた行を指した。
「死を起点のあなたへ戻して、回帰を閉じる式です」
アレクシスはその行を長いこと見ていた。
「前の君から聞いたのは、あの紙に書いたことだけだ。どういう式かは、聞いていない」
彼は写しの最後の一枚に目を移した。開いたままの図形と、その横の注記。
「式そのものを見るのは、初めてだ。俺が死ぬというのは、紙の上ではこの一行なんだな」
「ほかに、思い出したことはありますか」
「ない。思い出したら、その日に言う」
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書き終えてから、リディアは顔を上げた。
「私は、この式を、あなたが死ぬ形のままでは実行しません」
アレクシスの目が動いた。
「今だけの話ではありません。この先も、しません。兄の言う還元も、受け入れません。二つしかないと兄は言いました。でも、それは兄が知っている二つです」
リディアは写しに指を置いた。
「この式がどう組まれているのか、どこで死の行き先が決まっているのか、それを理解したいんです。分かれば、別の答えを作れるかもしれない。作れないかもしれません。でも、分からないまま二つから選ぶことはしません」
アレクシスは長いこと黙っていた。
机の上で、左の手がゆっくり握られた。手袋の縁から、白い痕がわずかにのぞいた。
「怖い」
低い声だった。
「君がこの式に近づくのが、怖い。前の君は、これを調べて、完成させないでと言った。その先で何があったのか、俺は知らない。調べた先で、君がまた何かを背負うのが怖い」
「分かっています」
「止めはしない。君が決めることだ」
握っていた手が、ゆっくり開いた。
「だから、手伝わせてくれ。式は読めない。だが、前の人生で見た線の形なら、覚えているものがある。君が写しを読む日は、研究室へ行く。見覚えのある線があれば言う。見覚えがあるだけのものは、そうだと言う」
「読み合わせに、来てくれるんですか」
「行く。明日からでも」
アレクシスは写しを揃えて、リディアの方へ押し戻した。紙の端に、指先が少しだけ残った。それから、離れた。
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研究室に戻ったのは、昼の鐘のあとだった。
ユリウスは作業台に、終端術式の写しを番号順に並べ直していた。兄の側の記録と同じ番号が、隅に振ってある。
「ねえ、先に一つ確かめたいんだけど」
ユリウスは最後の一枚を指した。
「この注記、絶対に完成させないで。何を完成させるな、って言ってるのか、分からないよね。開いた図形のことか、隣の終端の操作のことか」
リディアは写しを覗き込んだ。
注記は、図形と終端の項のあいだに書かれていた。どちらの横とも言える位置だった。
けれど、注記の頭に、小さな鉤のような線が一本付いていた。
「これ」
リディアは指で示した。
「北の奥の層二の書き込みに、同じ印がありました。注記がどの行のことか、鉤の先で示すんです」
ユリウスが北の層二の写しを出して、並べた。採った時には気に留めなかったが、短い書き込みのいくつかに同じ鉤が付いている。鉤の先は、どれも注記の対象の行を向いていた。
二人は鉤のほかにも、字を並べて見た。人を指す字の省き。三本目の寝た角度。注記を行の頭に寄せる置き方。どれも、層二の写しと同じだった。
リディアは帳面に書いた。残置術式の写しの書き手は、北の層二と同じ手。つまり自分の手と判断。根拠は字形二点、注記の鉤、注記の置き方。
それから、もう一度、写しの鉤を見た。鉤の先は、開いた図形ではなく、終端の操作の最後の項を向いていた。全体を閉じる、と書かれた項だった。
「じゃあ、注記が付いてるのは終端の方だ」
ユリウスが言った。
「鉤で言えるのは、そこまでです」
リディアは答えた。
「注記がどの行に付いているかは分かります。でも、なぜ禁じたのか、開いた図形とどうつながるのかは、分かりません」
「図形は別の項。何のための項かは、未定」
ユリウスはそう書いた。
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「それで、どうする」
「復元と起動を、分けます」
リディアは紙を二枚取った。
「一枚目は、復元です。写しの上で欠けた線を補って、式の形を読む。魔力は流しません。この紙は、身体にも、どの起動の系にもつなぎません」
「二枚目は」
「起動です。原形の終端は、実行しません。これは、もう決めたことです。もし別の答えが組めても、それを動かすかどうかは、復元とは別に決めます」
ユリウスは頷いて、二枚目の紙の頭に、自分の字で書き足した。別の答えの起動は、復元とは別の決定を要する。
「最初は」
「結ばれている条件の検算です」
リディアは言った。
「誰が結ばれているかは、もう測りました。私と、アレクシスと、兄。でも、死がどの順で動くのかは、まだ式で確かめていません。兄が言った移り方が、式のどこに書かれているのか。終端の操作が、どこで行き先を指定しているのか。そこから始めます」
ユリウスは帳面の新しい頁を開いた。
リディアは、写しの開いた図形をもう一度見た。閉じるはずの線が、あと少しのところで止まっている。
リディアは、起点の対象へ戻す、と書かれた行の横に小さく印を付けた。明日の読み合わせは、ここから始める。




