第八十七話 終端術式
日が傾く頃、兄は封をした書類の束を開いた。
「見せられるものがある。副室長として、お前に見せてよい範囲のものだ」
中から出てきたのは、薄い写しの束だった。遺跡の壁から採ったものらしく、線の太さが不揃いで、ところどころに石の割れ目の跡が白く抜けている。表紙の裏に、円に番号の印。
「零号室では、残置術式と呼んでいる。古い遺跡に残された式の断片だ。誰が書いたかは、記録にない」
リディアは一枚目を見て、手を止めた。
人を指す字の、二画目の省き。三本の線の、三本目の寝た角度。
見覚えがあった。帳面に並んだ自分の字を見る時と、同じ感じがした。
「私の手に、似ています」
声に出してから、言い直した。
「似ている、までです。北の写しと照らし合わせるまでは、そう書いておきます」
兄は驚かなかった。
「そうだろうと思っていた。北の奥で、お前が自分の字を読むのを見た」
二枚目の頭に、題のような一行があった。
終端術式。
「零号室では、この名で呼んでいないんですね」
「呼び名は違う。中身は同じものだ」
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リディアは写しを一枚ずつ読んだ。
式は長かった。けれど、骨組みは分かった。回帰術式に結ばれた者たちの項。保留の負担を示す項。北の奥で読んだ揃った字の行と、同じ形の線がいくつも出てくる。
その先に、一つの操作があった。
保留の負担を起点の対象へ戻す。起点の対象とは、通過した身体。アレクシスだった。
戻したうえで、回帰術式を閉じる。
「これは」
「既に分かっている、終わらせ方だ」
兄が言った。
「ふだんの移り方とは違う。零号室の読みでは、保留の死が招いた死の場を誰かが生きて越えた時に、死はその者から次の者へ移る。この式は、それとは別に移す先を指定する。起点のあの男へ戻して、全体を閉じる」
リディアは帳面に、終端術式、と書いた。
書いてから、ペン先が紙の上で止まった。
終わらせる方法がある。それをすれば俺が死ぬ。公爵邸の書斎で、アレクシスが紙に書いた行だった。
最初の人生で、彼の手首から入って、彼を殺した死。
「戻ったら、彼は」
「死ぬ」
兄は短く言った。
「起点の死が、本来の場所へ戻る。それで、回帰は閉じる。お前はもう、繰り返し預かってきた死を負わずに済む。だが、あの男が死ぬ」
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リディアは写しを机に置いた。
「方法は、これと還元の二つだけですか」
「確かなのは、その二つだけだ」
兄は机の上の写しを揃えた。
「終端なら回帰は閉じる。だが、欠片はお前の中に残り、基盤は衰え続ける。そして、あの男が死ぬ。還元なら、回帰も閉じ、基盤も保たれる。お前は苦しまずに在り続ける。私は、後の方を選ぶ」
「全面還元が安全だというのは、何で確かめたんですか」
兄は少しのあいだ黙った。
「長い観測と、小さな負荷での試験だ。基盤が負荷にどう応えるか、何年も記録を取っている」
「人一人を一度に還したことは」
「ない」
「では、安全だと分かっているのは、小さな負荷の範囲までですね」
兄は答えなかった。
「この写しを、研究に使わせてください。読んで、写して、調べたいです。研究室の共同研究者にも見せます」
兄はしばらく妹の顔を見ていた。それから、頷いた。
「いいだろう。条件がある。写しを作るのは、この束の範囲だけ。零号室の管理するこの写しは、この部屋から持ち出さない。お前の写しにも、同じ番号を付けろ。どこで何を写したか、私の側にも記録を残す」
「分かりました」
「お前なら、読めば分かる。この二つのほかに道がないことが」
妹の返事を受け入れて、計画をやめたのではない。調べれば、妹も同じ結論に行き着くと信じている。その顔だった。
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最後の一枚は、ほかより線が乱れていた。
終端の操作を書いた項の、すぐ脇。図形が一つ描かれていた。円になりかけて、途中で開いたままの形。閉じるはずの線が、あと少しのところで止まっている。
その横に、小さな字が添えてあった。
絶対に完成させないで。
リディアは息を止めた。
完成させないで。アレクシスが伝え聞きとして書いた言葉と、同じだった。
書き損じに見えた。描きかけて、やめた図形。けれど、打ち消しの線は引かれていない。消してもいない。わざわざ注記まで付けて、残してある。
リディアは図形も注記も、開いたままの線の終わりの位置までそのまま写した。直さなかった。閉じもしなかった。
「それは何だ」
兄が尋ねた。
「分かりません。分からないから、そのまま写します」
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数日後、研究室の作業台に、借り直した標準器と照合項の板が並んだ。
ニコが朝のうちに校正を済ませて出ていくと、残ったのはリディアとユリウス、アレクシスと兄だった。兄は戸口で一度だけ足を止め、それから中へ入った。
手順は、ユリウスを測った時と同じにした。今日は昼と夕方の二度。
兄とリディアの組で、針は揺れの幅を越えて振れた。
それから、兄とアレクシスが左右の板に手を置いた。
リディアは並んだ二つの手を見ていた。兄の手は白く、指が長い。子供部屋の机の傷の手前で止まった指だった。アレクシスは左の手袋を外していた。手首の内側に、細い線が三本。一本だけが、途中で折れている。
兄の目が、その痕で止まった。
針が振れた。
兄は息を一つ吐いた。目は、まだ痕から離れなかった。アレクシスは手を板に置いたまま、動かなかった。
位置を替え、組を替えても、兄の組の針は毎回振れた。
ユリウスが帳面に書いた。セドリック・エルフォード。既知の結びつきのある二人のどちらと組んでも応答あり。本日の結果として記録。回帰術式の照合項が照らせる範囲での結びつき。
器具を片づけながら、リディアは尋ねた。
「意識が保たれるという説明の、根拠の記録を見せていただけますか」
「今は、持ち出せない」
兄は言った。
「室長には、その記録を見せるよう求めた。返事は、まだない。それで私の考えが変わるとは、言わない」
リディアはそのとおりに書いた。
作業台の上で、照合項の板が二枚、布に包まれていく。さっきまで、そこに兄の手とアレクシスの手が並んでいた。
帳面の別の頁に、写した終端術式がある。起点の対象へ戻す、と書いた行。その脇の、開いたままの図形。
完成させれば、彼が死ぬ。




