第八十六話 終わらない夢
「兄様は、さっき、私の見るものにも出てくる、と言いました」
リディアは帳面の頁を改めた。
「何を見ているんですか」
兄は窓の方を向いた。
庭の木の影が、白い布を掛けた家具の上をゆっくり動いていた。兄はしばらく、それを見ていた。
「夢だ」
前にも聞いた言葉だった。顔色の悪い兄に、眠れていないのかと尋ねた時。夢を見る、目が覚めると何の夢だったか覚えていない、と兄は言った。
「あの時は、覚えていないと言いました」
「全部は覚えていない。それは本当だ」
兄は机の上で指を組んだ。
「お前が戻した時、魔力を貸したのは私だった。北の奥の記録に、私の名があったな」
「はい」
「あれで、私もお前たちと結ばれた。零号室ではそう考えている。結ばれた者には、お前の死の欠けらのようなものが、夢になって来ることがある。全部ではない。人生のどこかが、ほんの一場面だけ。来ては、消える」
「いつからですか」
「お前が院に入ると言った頃からだ」
リディアのペンが止まった。
十七の、あの朝の少しあとだった。自分が戻ってきてすぐ、兄の書斎で院へ行くと言った。
「その前は、見なかったんですか」
「見ていない。子供の頃に、お前の死ぬ夢を見たことはない。見るようになったのは、あの頃からだ」
リディアは書いた。兄の夢、本人の申告。始まりは、院への進学を告げた頃。
---
「一つでいいです。どんな場面か、言えますか」
兄はすぐには答えなかった。
それから、ゆっくり言った。
「広場だ。人が大勢いる。旗が出ている。祭りの日だと思う。足元から光が上がってくる。青い線が、床を這う」
リディアの指が帳面の端を押さえた。
「お前は高いところにいる。手すりのある、席のようなところだ。人が逃げていくのに、お前は逃げない。手すりから身を乗り出して、下を見ている」
兄の声が低くなった。
「男がいる。人の流れに逆らって、お前の方へ来る。顔は見えない。夢の中で、私はそちらを見ていないからだ。私が見ているのは、お前の方だ。お前は最後まで、その男を見ている。光が白くなるまで、目を離さない」
部屋が静かになった。
リディアは息を吸った。
貴賓席の手すり。足元を這った青い線。人の流れに逆らってくる、黒い制服の背の高い人。手袋のない素手。
知らない目だった。白くなる光。
彼が走ってくるのを、初めて見た。
「……私も、その場面を覚えています」
声が少しかすれた。
「前の人生の、最後の日です。建国祭の広場でした」
兄は妹の顔を見た。それから、目を伏せた。
「そうか」
それだけだった。
リディアは帳面に書いた。兄の夢の広場の場面、自分の記憶と一致。
「ほかの夢は」
「ある。だが、言葉にならない。目が覚めると、怖かったことだけが残る。お前がどこかで死んでいる。どこで、どうしてかは、消えている」
兄は組んだ指に力を込めた。
「北の奥で膝をついた時も、そうだった。来て、すぐに消えた」
---
「毎晩ですか」
「毎晩ではない。だが、少なくはない」
兄は少しだけ笑った。笑い方が、いつもと違った。
「妹の死ぬ夢を、何か月も見続ける。それがどういうことか、お前に分かってほしいとは言わない。ただ、終わらせたかった。お前が死ななくて済むなら、私の夢も止まる。そう思った」
リディアは兄を見た。
目の下の翳り。昼に見た時より白い顔。前に触れた、冷たい腕。
この人は、ずっとこれを抱えていた。自分には言わずに。
「苦しかったと思います」
リディアは言った。
「それは、分かります」
兄の肩が、わずかに緩んだ。
「でも、さっきの返事は変わりません。兄様の苦しみを、私を還す理由にはしないでください」
兄は何も言わなかった。
「夢は、止めたいです。兄様のために。還す以外のやり方で」
兄が顔を上げた。
「還す以外に、やり方があるのか」
「まだ分かりません。分からないから、確かめます」
---
リディアは帳面の新しい頁を開いた。
「そのために、まず確かめさせてください。兄様が本当に結ばれているのか。研究室で、ユリウスを測った時と同じ条件で。今日ここではしません。器具も準備も、ここにはありません」
「結ばれていると出たら、どうする」
「その日の結果として記録します。一度で全部は決めません」
兄は少し考えてから、頷いた。
「いいだろう。日を決めろ」
「器具の手配を王女殿下にお願いして、届いた日に。記録は、研究室の帳面と兄様の側に、一部ずつ」
「それでいい」
リディアは日取りの欄を空けたまま、検査の条件だけを書いた。
ペンを置いて、兄の顔を見た。
夢を見せているのが兄の言うとおり結びつきなら、止める方法がほかにないとは、まだ誰も確かめていない。




