第八十五話 兄の論理
旧い子供部屋は、伯爵邸の東の端にあった。
母がいた頃は、ここで朝の祈りを習い、雨の日に積み木を並べた。今は使う人もなく、家具に白い布が掛けてある。窓際の小さな机だけが、布を外されていた。
兄が先に来ていた。
机の上に帳面とペンと、封をした書類の束が一つ置いてある。椅子は二つ。子供用の低い椅子ではなく、どこかの部屋から運ばせたらしい大人の椅子だった。
「座れ」
リディアは座った。机の天板に、小さな刻み傷がいくつもある。古い字の、最初の一画を練習した跡だった。兄が隣に座って、こうだ、と手を添えた机。
「記録を取ります」
リディアは帳面を開いた。
「許す、と書いた」
兄は書類の束に手を置いた。
「副室長として話す。答えられないことは、答えられないと言う。そのうえで、お前が聞きたいことから聞け」
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「零号室は、私について何をしようとしているんですか」
兄は答えるまでに、珍しく間を置いた。
いつもなら、問い終わる前に答えが返ってくる。今日は、兄はしばらく机の傷を見ていた。
「お前を、世界基盤へ還す」
リディアのペンが止まった。
「お前の中には、基盤から欠けたものがある。生まれる前に入った。お前ももう知っているだろう」
「欠片、と私は呼んでいます」
「零号室でも、そう呼ぶ」
兄は顔を上げた。
「基盤は衰えている。二百年かけて、ゆっくりとだ。その衰えを止めるには、欠けたものを戻すのがいちばん確かだ。そして欠片は、お前の一部になっている。切り分けて戻すことはできない、というのが零号室の結論だ。だから、お前ごと還す。還元、と呼んでいる」
リディアは書いた。還元。欠片を宿した本人を基盤へ還す計画。
手が、思ったより落ち着いていた。
「それだけではない」
兄は続けた。
「お前は、何度も死んでいる。零号室の預かる記録にも、私の見るものにも、それが出てくる。お前が還れば、それも終わる。もう死ななくていい」
兄の声は静かだった。脅す声ではなかった。言い聞かせる時の声とも違った。自分が信じていることをそのまま差し出している声だった。
「世界が保たれて、お前はもう死なない。私は、それがお前を救う方法だと思っている」
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リディアはペンを置いた。
「還された私は、どうなるんですか」
「意識を保ったまま、基盤の中に在り続ける。苦しみはない」
答えは早かった。いつもの早さだった。
「誰がそう言ったんですか」
「室長だ。手順の説明の時に、そう聞いた」
「兄様は、それを確かめましたか」
兄は一度、口を閉じた。
「室長は、私が院に入った年から零号室の仕事を教えた人だ。基盤の記録を、誰より長く見てきた。網を一日も止めずに衰えを手当てする方法を、若い頃からずっと探してきた人だ。その人がそう言った。手順書も、私の読める範囲では、その説明と食い違わない」
「手順書に、意識が保たれると書いてあるんですか。それとも、室長の口から聞いた説明ですか」
兄は答えなかった。机の上の書類の束を指で少しだけ押さえた。
リディアは帳面に書いた。還された本人の状態。兄の説明では、意識を保ち苦痛なく在り続ける。出典は室長。手順書の記載か口頭の説明かは、回答なし。
書きながら、指先が冷たくなっていた。
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「いつから、進めていたんですか」
「準備は、何年も前からだ。私が副室長になる前から、計画はあった」
「いつ行うのかは」
「それは、副室長としても答えられない範囲だ」
答えられないなら、その理由を。手紙にそう書いたのは自分だった。リディアはペンを止めなかった。
「では、分けて聞きます。日取りは、まだ決まっていないんですか。決まっていて、言えないんですか」
「答えられない」
「言うなと決めたのは、誰ですか」
「それも、答えられない」
「私が今日断っても、準備は続くんですか」
兄は、今度はすぐには答えなかった。
「……答えられない」
リディアは書いた。日取りの有無、口止めをした者、拒否のあとの準備。三つとも回答拒否。理由の説明なし。
「兄様」
リディアは兄の顔を見た。
「その計画のどこかで、誰かが私に聞きましたか。還りたいか、と」
兄は黙っていた。
「聞いていませんよね。兄様も、室長も。私が頷かないことが、分かっていたからですか」
長い沈黙のあとで、兄は言った。
「……お前は頷かないと思った。だから、言わずに進めた。それは、私も知っていたことだ」
兄は目を逸らさなかった。
「室長に騙されて加わったとは言わない。お前に聞かずに進めると決めた場に、私はいた」
リディアは膝の上で手を握った。
兄の顔に、言い逃れの色はなかった。自分のしたことを人のせいにもしなかった。それが、かえって胸に重かった。
「兄様が私を大事に思っているのは、知っています」
声が少し震えた。止めずに続けた。
「小さい頃、この机で字を教えてくれました」
兄の手が、書類の束を離れた。天板の浅い傷の一つへ伸びかけた。昔、妹の指をそこへ導いた時のように。指は傷の手前で止まって、それから膝の上へ戻った。
「院へ行くと言った日も、すぐに賛成してくれました。私が北へ行くと言えば、一緒に行くと言いました。それが嘘だったとは思いません」
兄は机の傷を見ていた。
「でも、同意しません」
リディアは言った。
「還元にも、それに向けた準備にも、私は同意しません。私を救う方法だと言うなら、救われる私に、まず聞いてください。聞かれていたら、私は今日と同じことを答えました」
兄は何も言わなかった。
「兄様の気持ちを、否定はしません。でも、この返事は撤回しません」
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リディアは帳面に、今日の日付と自分の返答を書いた。同意しない。撤回しない。
兄はそれを見ていた。止めなかった。
窓の外で、庭の木が揺れていた。母が東屋で光に包まれた庭だった。
「お前の返事は、記録に残す」
兄がようやく言った。
「副室長として、それは約束する」
記録に残す、と兄は言った。止める、とは言わなかった。準備が続くのかという問いにも、答えないままだった。
リディアは最後の行を見下ろした。
自分のためだという計画に、自分の返事が必要とされていない。




