第八十四話 今日の私
ミレイユに何を話すかは、数日前にアレクシスと決めておいた。
前の人生の十年のこと。自分の生まれのこと。それから、二人に関わる回帰のこと。話すのは、自分たちのことだけにする。ほかの人の死の記録や、零号室の書類は渡さない。細かいことは省いて、大筋だけにする。
「君が話したいところまででいい」
アレクシスはそう言って、自分の記憶のことも話してよいと同意した。
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ローデン侯爵邸のミレイユの部屋は、夕方の光で少し赤かった。小さな卓に、茶と焼き菓子が並んでいる。
「今日は冊子を出さないのね」
ミレイユが言った。
「出さない。今日は、私の口で話したいの」
リディアは話した。
自分には十七から二十七までの、もう一つの人生の記憶があること。その人生で、公爵と結婚して、十年、ほとんど言葉を交わさなかったこと。建国祭の日に死んで、十七の朝に戻ってきたこと。戻ったのは一度ではなく、彼が何百回も戻してきたらしいこと。最初に戻したのは、ずっと前の自分だったこと。
自分の身体に、世界の一部のようなものが宿っているらしいこと。母の手記と、王家の記録で分かったこと。
ミレイユは、途中で一度も口を挟まなかった。焼き菓子にも手を伸ばさなかった。
話し終えると、部屋の中が静かになった。
「……全部は、分からないわ」
ミレイユはようやく言った。
「戻ってくる、とか、世界の一部、とか。私には、あなたが言ったとおりの言葉でしか分からない。でも、あなたが嘘をついていないのは分かる」
「うん」
「それと、十年のこと」
ミレイユの声が、少しだけ低くなった。
「あなたが一人だった十年。私は、その時どこにいたの」
「いた。手紙をくれていた。返事を遅らせたのは、私の方」
ミレイユは唇を噛んだ。それから、茶の杯を両手で包んだ。
「今のあなたが会いに来てくれて、よかったわ」
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リディアは杯を卓に置いた。
「怖いことがあるの」
「何」
「前の十年、私は何も期待しないようにしていた。待っているうちに、期待すること自体が怖くなったの。今度の人生で婚約を断った時も、まず疑うところから始めた。そういう怖がり方まで、もっと前の私から残ってきたものかもしれない。そう思うと、今の私の、どこまでが私なのか分からなくなる」
ミレイユは少し考えてから、言った。
「十年も一人で待たされたら、誰だって期待するのが怖くなるわよ。それは、あなたの性格が悪かったからじゃない」
それから、杯を置いた。
「じゃあ、私が見たことを言うわね。研究室で、あなたがユリウスさんの言ったことに噴き出したの、覚えてる? 声を立てて笑った。昔、書庫で私が何か言うと、そうやって笑ったのよ。ここ何年か聞いてなかったのに、急に戻ってきた。私、お菓子を持ったまま固まったわ」
リディアは小さく頷いた。
「服を選んだ日も、鏡の前で勝手に笑ってた。帳面の、木より大きな犬の絵でもね。この前の夕食なんて、葡萄に一度も手を伸ばさないで、言われて慌てて一粒食べたじゃない」
ミレイユは少し笑った。
「それが、ずっと前のあなたから来たものかどうかは、私には分からない。でも、今年のあなたよ。私が見てた」
リディアは何も言えなかった。
胸の怖さは、まだ残っていた。それでも、どの場面にも覚えがあった。
「それから」
リディアは言いかけて、声が詰まった。
「衰えが二百年前からあるのは、分かってる。揺らぎも、私が生まれる半年前のこと。でも、私の中にあるものが、今もそれを悪くしているのかもしれない。そう考えると、止まらなくなるの。もし、私のせいで」
「待って」
ミレイユが遮った。
「悪くしているって、記録に書いてあったの?」
「……書いてない」
「原因が分かってないのに、責任だけ先に決めるの?」
リディアは口を閉じた。
研究室では一度も自分に許さなかったことだった。分からないことを、分からないと書く。原因と、日付が重なることを分ける。それを自分のことになった途端に飛び越えようとしていた。
「確かめる」
リディアは言った。
「今の研究で、確かめる。分からないうちは、分からないって書く」
「それがいいわ。あなたらしい」
ミレイユはようやく焼き菓子を一つ取って、リディアの皿にも一つ載せた。
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公爵邸に着いたのは、日が沈みかけた頃だった。
書斎で、リディアは兄の肩書の写しをアレクシスに見せた。彼は一度だけ読んで、紙を卓に戻した。
「前の人生で俺が知ったのと、同じ肩書だ」
「兄について、ほかに知っていることはありますか」
「多くない」
アレクシスは少し考えた。
「君の兄が零号室にいたこと。北の記録を、管理の側で扱っていたこと。それくらいだ。何かの計画があったとしても、俺は聞いていない」
「分かりました」
リディアは頷いた。
「兄には、私が自分で聞きます。副室長として説明してほしいと、手紙を出しました」
「返事は」
「まだです」
アレクシスはしばらく、写しを見ていた。リディアはその横顔を見てから、窓の外の庭へ目を向けた。
「帰る前に、庭をもう一度歩きたいです。前と同じ道を」
アレクシスが顔を上げた。
「行こう」
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庭は、前に歩いた時より葉が少なくなっていた。
池の手前の分かれ道で、アレクシスが先に左を指した。花壇の外側をゆるく回る、遠回りの道だった。
リディアはそちらへ足を向けてから、彼を見た。
「散歩にも、道順を決めておくんですか」
「君がもう一周と言うからだ」
「今日は、まだ言っていません」
「まだ、だろう」
リディアは言い返そうとして、言葉に詰まった。
「前の時は、私が先に遠回りを選んだんです。あなたは近道に行こうとしていました」
「二周目は、俺が選んだ」
「それは、私が選んでくださいと言ったからです」
「なら、今日は先に選んだ」
花壇を回り、池の縁を歩きながら、どちらが先だったかを言い合った。
アレクシスが足を止めた。
「通り過ぎた」
「何をですか」
「帰る角だ」
振り返ると、玄関へ戻る小道の角が、もう後ろの植え込みの向こうにあった。
リディアは笑った。アレクシスも、口元を少しだけ緩めた。
二人で引き返した。来た道の分だけ、また歩いた。
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伯爵邸に戻ると、執事が玄関で封筒を差し出した。
兄の字だった。
明日の昼、家の旧い子供部屋で。副室長として話す。記録は許す。
それだけだった。
リディアは封筒を胸に当てて、しばらく玄関に立っていた。
子供部屋。兄が、古い字を最初に教えてくれた机のある部屋。




