第八十一話 欠片を宿した子
その夜、リディアは執事に書庫の鍵を頼んだ。
母の箱から、布張りの手記の一冊目だけを出した。灯りを机の端に寄せ、目録で番号を振った頁を開く。
母の字は、細くて少し右へ傾いていた。
冬の夕方、庭の東屋で、膝掛けを取りに行かせたあいだのことだった。
急に、あたりが白くなった。雪の照り返しかと思ったが、空はもう暗かった。光は足元から立ち上がって、私を包んだ。熱くも冷たくもなかった。何かが、身体の中へ入ってきたように感じた。お腹の、もっと奥の方へ。
痛みはなかった。光はすぐに消えた。侍女が戻ってきた時には何も残っていなかった。
その夜、お腹の子がよく動いた。
リディアはそこで一度、手を止めた。
お腹の子。自分のことだった。
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次の頁から、母の字は少し落ち着いていた。
翌日、医師に診てもらった。どこも悪くないと言われた。旦那様は心配して、しばらく庭へ一人で出るなと言った。私は、何だったのかは分からないと書いておく。分からないけれど、怖くはなかった。
それから、手記は普通の日々に戻っていた。
セドリックが、お腹に耳を当てたがる。動いたと言うと、自分が呼んだからだと言い張る。
小さな肌着を三枚縫った。袖を一つ、左右逆に付けてしまった。直さずに取っておく。
名前を旦那様と決めた。リディア。長いから、私はきっとリディと呼ぶ。
リディアは頁の上で、指を止めた。名前の行をもう一度読んだ。長いから、きっとリディと呼ぶ。
光のことに触れたのは、そのあと一度だけだった。春の頁に、一行。あの冬の光のことは、もう夢だったような気がする。
兄がお腹に耳を当てるのを、母は笑って見ていたのだろうか。リディアにはそう思い浮かべることしかできなかった。
研究室へ持っていく写しに、名前の行まで入れるかどうか、少し迷った。光の記述と日付があれば、検証には足りる。それでも、その頁は丸ごと写した。待たれて生まれたことも、自分にとっては記録の一部だった。
リディアは手記を閉じ、目録の頁に、冬の光の記述と日付を書き足した。
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翌日の昼、研究室の作業台に、ユリウスが二つの紙を並べた。
左は、リディア自身の測定の記録。王宮の工房から借りた標準器で三日間、朝昼夕に取ったもの。供給を落としても消えない、一本の拍。
右は、王女が共同研究者に見せてよいと許した、この十年の観測図の写し。
「まず、物差しを揃える」
ユリウスは観測図の余白を指した。
「王家の図も、工房の標準器と同じ校正規格で取ってある。ここに書いてある。だから、君の測定と同じ目盛りに直せる。直す時のずれの幅も、規格に書いてあるとおりに付ける」
ユリウスは半日かけて、換算の表を作った。リディアはその横で、一つずつ検算した。
それから、二枚を重ねた。
王家の図には何本もの波が重なって描かれていた。余白の凡例が、線の種類で描き分けている。網の流れ、季節の揺れ、器具の癖。いちばん下の細い点線が、基盤の底の波だった。いつの月の図にも、同じ速さで刻まれている。
自分の拍と、同じ速さだった。揺れの形も、ずれの幅の中に収まっていた。
「ニコさんの測定には、これはなかった」
ユリウスが静かに言った。
「君の普通の魔力とも別の成分。測った供給の範囲では、量に関係なく三日間ずっとあった。それが、凡例で基盤の底の波とされてる線と合う」
リディアは帳面に、根拠を四つ並べた。自分の中の、普通の魔力とは別の成分。それと合う、基盤の底の波。生まれる半年前の、西区の揺らぎ。同じ日に母が見た光。
四つが、同じ冬の同じ庭を指していた。
「書きます」
リディアは言った。
「本人は、基盤から欠けた一部を宿している。欠片、と呼びます。入った瞬間やその経過を、今の測定で見たわけではありません」
ユリウスは頷き、自分の帳面にも同じ四つを写した。
「欠片、か。いい名前だと思う。もっといい名前があったら変える、って言いたいけど、たぶんこれが一番合ってる」
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ユリウスが王家の図の写しを鍵付きの棚へ収めに行ったあと、リディアは一人で検証の記録を見返した。
北の奥の、後から足された線。自分が読むと光った線。回収の型と、自分が名づけた形。査察官の器具が、量ではなく何かに応えて振れたこと。
あの線が回収しようとしていたのは、これだったのかもしれない。
それは推測だった。推測の欄に、そう書いた。
それから、記録の最後に、観測の欄とは別の欄を作った。本人の立場、と見出しを付けた。
母は、何が入ったのか分からないまま、名前を決めた。光のあとも母が待っていたのは、世界の一部ではなかった。袖を逆に付けた肌着を着る子だった。
リディアはペンを取り、少しだけ迷ってから、自分の言葉で書いた。
世界の一部があることと、私を還してよいことは違う。




