第八十話 世界は戻らない
王女の返事は四日後に届いた。場所は前と同じ東棟の書庫、日は翌日の昼。手紙の最後に一行だけ、陛下の許しの範囲で、とあった。
書庫の机には綴りが三つ置いてあった。一つは見覚えがある。王都地下魔法網観測記録の目録。年ごとの欄が十段並んだ、あの目録だった。
「座って」
エレオノーラは、残りの二つの綴りの上に手を置いた。
「今日のは、父上が見せてよいと決めた分だけ。観測している部署の内部の書類と、誰が何を決めたかの記録は出ない。この十年より前の詳しい原本もね。要約ならあるわ」
王女は二つ目の綴りを開いた。
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表紙の内側に、古い書き方で題が記されていた。
世界基盤観測、要約。
「世界基盤」
リディアは声に出して読んだ。
「地下の魔法網の、さらに下にあるもの、と書いてあるわ。網はその上を流れている、と」
要約の頁には年ごとの数字が一つずつ並んでいた。古い方から新しい方へ、二百年あまり。数字は少しずつ小さくなっていた。急に落ちる年はない。ゆっくりと、何十年もかけて下がっている。
「昔から、衰えているんですね」
「記録の上ではね。少なくとも、この要約が始まった頃から」
リディアは頁をめくった。数字の列の中に、一か所だけ印のついた年があった。その年の欄だけ、数字の横に小さな注記がある。
大きな揺らぎ。一度。王都西区。日付。
日付を読んで、リディアの指が止まった。
自分が生まれる、半年ほど前の冬だった。
王都西区。伯爵邸のある区画だった。
「この揺らぎは」
「その年に一度だけ。前にも後にも、同じ大きさのものはない、と書いてあるわ。何が起きたのかは、書いていない」
リディアは帳面に写した。年、区画、日付。注記の文言は、そのまま。
それから、三つ目の綴りを見た。
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三つ目は、この十年の詳しい測定だった。
月ごとに、王都のいくつもの地点で測った波の形が、図になって綴じてある。要約の数字は年に一つだったが、こちらは一つの月に何枚もあった。
どの図にも、余白に同じ凡例が刷ってあった。重なった波を描き分ける線の種類と、その名前。網の流れ、季節の揺れ、器具の癖。いちばん下の細い点線には基盤の底の波、とある。凡例の下には測った器具と校正の条件が小さく添えてあった。
「この十年だけ、測り方が細かいの」
王女が言った。
「十年前に器具が変わった、とあるわ。だから、前の要約と同じ物差しでは並べられない。並べたら、十年前に急に何かが変わったように見える。でも、それは器具が変わっただけかもしれない」
リディアは頷いた。
「この十年の図の中で、衰え方が変わっているかどうかは」
「私には読めないわ。読めるなら、あなたに頼まない」
王女は少し肩をすくめた。
リディアは図を一枚ずつ見ていった。凡例のおかげで、どの線が何かは追える。ただ、基盤の底の波が月ごとに少しずつ違うのが、自然の揺れなのか、何かが加わったものなのかは、図だけでは分からなかった。
綴りのいちばん後ろに、図ではない頁が一枚あった。古い原記述の写しだった。字は、遺跡の文字に近い古い書き方だった。
リディアは読んだ。
基盤は戻らず、基盤には時がない。
もう一度、読んだ。意味は分かる気がした。けれど、分かる気がするだけだった。
戻らない、とは何に対してなのか。時がない、とは何がないのか。前後の行は、写しには入っていない。
「この頁は、引用として写させてください。意味は、私には決められません」
「いいわ。写しは許されている」
リディアは一字ずつ写し、横に、前後の文脈なし、とだけ書いた。
戻らない、という語に目が留まった。北の奥の壁は、自分が何度も戻るあいだに積み重なった字を消さずに持っていた。そのことと、この一行に関係があるのかどうか。
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帰り際、王女が封筒を一つ差し出した。
「この十年の図のうち、あなたの研究に要る分の写しよ。凡例と校正の条件も付けてある。共同研究者に見せるのは許されている。それ以外の人には見せないで」
「ユリウスには」
「レインハルトでしょう。名前は聞いているわ」
リディアは封筒を受け取った。
「殿下。この揺らぎの日付について、何かご存じですか」
エレオノーラはリディアの顔を見た。
「知らないわ。その日に西区で何があったかを書いた記録は、私の手元にない。あなたが何を考えているかは、顔で分かるけど」
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伯爵邸に戻ったのは、夕の鐘の少し前だった。
自分の部屋で、リディアは帳面を開いた。
自分が戻るのは、十七の朝だ。それより前には戻らない。生まれる前の冬に起きた揺らぎは、何度戻っても、戻る前からあったことだった。回帰が積み重なって起こしたことではない。少なくとも、時の順番の上では。
原因を自分の生まれに結びつけるのは、まだ早い。
それでも、確かめておきたいことが一つあった。
リディアは書庫で作った目録を出した。母の手記の、一冊目。頁ごとに、何について書かれているかだけを拾ってある。
その中に、通して読まずに番号だけ振った頁があった。母自身の体の具合。目録の横に、小さく書き添えてある。光、という語あり。
日付の欄を見た。
王家の要約の日付と、同じ冬の、同じ日だった。
リディアは目録を閉じなかった。指が、紙の上の日付から動かなかった。




