第八話 もう一度解く
父は報告を最後まで黙って聞いた。
書斎の机の上にリディアは代替課題の紙と、赤い丸のついた標準図の写しを並べ、試験で起きたことと自分が指を離した理由、十日後に出すものを順に話した。兄が口を挟もうとするたびに、リディアは先に続きを話した。
「つまり、まだ落ちてはいないのだな」
「はい。通ってもいません」
父は課題の紙を手に取り、目を細めて読んだ。
「院の不備で中断したのに、受け直しはお前の手間か」
「同じ目に遭った十一人、全員がです。費用は院が持ちます」
父はしばらく紙を見ていたが、やがて机に置いた。
「十日後までは今のとおり出す。本も、馬車もだ」
「ありがとうございます」
「礼は通ってからでいい」
父はそれだけ言って、書簡の束に手を伸ばした。
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書庫の机は三日で紙に埋まった。
最初の晩は案を書けなかった。誤った図では熱が戻って溜まる。直した図では外へ抜けて落ち着く。リディアにはそれが見えている。見えていることを、そのまま書いても検証にはならない。バルドが言ったとおりだった。
二日目に兄の棚から院の教本を借りた。保温の術式の章を開き、標準図の元になった頁を探す。教本の図では真ん中の線は入口ではなく皿の縁の外へ抜けていた。試験用の図との違いは一本の行き先だけだった。
そこから手順を組み直した。
同じ皿、同じ筆、同じ墨。誤った図と直した図を二枚の皿に描く。主供給は使わず、院の検証室にある小さな供給器から、同じ低い出力だけを流す。皿の縁に測温の針を当て、決まった数を数えるごとに目盛りを読む。針が安全の上限の線に近づいたら、その場で供給を切る。
書きながら、何度も手が止まった。
どうして二枚とも同じ墨なのか。墨が違えば熱の通り方が違うかもしれないからだ。どうして数を数えるのか。読む間隔がばらばらだと、熱の上がり方を比べられないからだ。一つずつ理由を書くたびに、紙の上の手順が長くなっていく。自分の頭の中では一瞬で済むことを、他人が追える順番に並べ直すのに、半日かかった。
ミレイユは毎日来た。
焼き菓子の籠を机の隅に置き、リディアの横に椅子を引いて座る。一日目は問題を読み上げると言っていたが、机の上を見て、何も言わずに籠だけ置いていった。二日目からは、リディアが手を止めると話しかけた。
「それ、何の線?」
「熱を逃がす線。これが入口に戻ってるのが間違いで――」
説明しかけて、リディアは口を閉じた。また早口になっている。
「続けて。分からないけど聞いてる」
ミレイユは菓子を一つかじって、頬杖をついた。
リディアは最初から話した。皿のこと、墨のこと、数を数えること。ミレイユは半分も分かっていない顔で、それでも途中で一度だけ質問をした。
「その針って、誰が読んでも同じ数になるの?」
リディアは筆を止めた。
「……ならないかもしれない」
針の先が目盛りの線と線の間に来たら、読む人によって数がずれる。手順の紙に一行を足した。目盛りは針の先が過ぎた線の数で読む。線の間は切り捨てる。
「役に立った?」
「とても」
「じゃあ、お菓子をもう一つ食べて」
ミレイユは頑張ってとも、大丈夫とも言わなかった。籠を押しやって、また頬杖をついた。
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十日目の朝、リディアは魔導院の検証室にいた。
窓の小さな石造りの部屋で、壁際の棚に器具が並んでいる。机の上に真鍮の皿が二枚、測温の針が二本、小さな供給器が一台。バルドと、もう一人、袖をまくった若い男が机の向こうに立っていた。
「助手のニコだ。今日は二人で追試する」
ニコは軽く頭を下げて、リディアの手順の紙を受け取った。紙をめくりながら、目盛りの読み方の行で指を止める。
「切り捨て。いいですね。去年これで揉めたんですよ」
リディアは鞄からもう一つの封筒を出した。封をしてある。
「結果の予測です。追試が終わるまで開けないでください」
バルドが眉を上げた。
「予測を先に見せない理由は」
「見ていると、針を読む時にそちらへ寄るかもしれません。私は結果が分かっていると思っています。でも、それが本当かどうかは、私の手を離れたところで確かめてほしいんです」
バルドは封筒を受け取って、机の端の文鎮の下に置いた。
「では、あなたは見ているだけだ。皿にも供給器にも触れないように」
リディアは壁際に下がった。
ニコが手順の紙を読み上げ、バルドがそのとおりに皿を描く。誤った図と、直した図。墨を乾かし、測温の針を縁に当て、供給器の出力を一番低い目盛りに合わせる。
「供給、入れます」
二枚の皿が淡い橙に灯った。
ニコが声に出して数を数える。二十ごとにバルドが針を読み、ニコが帳面に書く。一度目の読みは二枚とも同じだった。二度目も同じだった。
リディアは口を開きかけた。二度目までは差が出ない、熱が溜まるには間がいる。そう言いたかった。言えば、針を読むバルドの目が自分の言葉に寄る。唇を結んで、壁際に立ち続けた。
三度目で、誤った図の針だけが一つ先の線を越えた。
組んだ指が冷たかった。
直した図の針は四度目の読みから先、同じ線の上で止まった。誤った図の針は止まらなかった。読むたびに線を一つずつ越え、六度目の読みで安全の上限の一つ手前に届いた。
「切ります」
ニコが供給器を止めた。皿の灯りが消える。誤った図の皿だけが、縁にしばらく熱を残していた。
バルドは帳面を見てから、文鎮の下の封筒を取って封を切った。
紙にはリディアの字で二行だけ書いてある。直した図は三度目か四度目の読みから動かなくなる。誤った図は止まらず上がり続け、上限の手前で切ることになる。
バルドは帳面と紙を並べて机に置いた。
「合っている」
ニコが帳面を覗き込んで、それから壁際のリディアを見た。
「あなた、一度も皿に触ってないですよね」
「触っていません」
「じゃあ、あなた自身の魔力を使わなくても、この手順で同じ差が出たってことですね」
「では、もう一つの方だ」
バルドが新しい皿を一枚、机の手前に置いた。
「直した図を描いて灯し、ニコが四十数えるあいだ保ってから、自分で止めなさい。今度は触っていい」
リディアは筆を取った。教本の図どおりに三本の線を引き、真ん中の一本を皿の縁の外へ抜く。筆先が一度だけ震えて、ニコが線の端を覗き込んだ。はみ出してはいなかった。
供給器を一番低い目盛りに合わせ、皿の縁に指先を当てる。魔力を少し添えると、線が橙に灯った。針がゆっくり上がる。上がりすぎる前に、指先の力を半分に絞った。針は一つの線の上で止まった。
ニコの数える声だけが部屋に響く。四十まで、針は動かなかった。
リディアは先に供給器の目盛りを零へ戻し、それから指を離した。灯りが薄れて消え、針がゆっくり下がっていく。
バルドが帳面の二つの欄にそれぞれ書き込むのが見えた。
「代替課題の結果は審査に回す。通知は数日のうちに出る」
リディアは頭を下げた。顔を上げた時、机の上の三枚の皿が目に入った。図を見た瞬間に見えていたものを、他人の手と自分の手で同じ形にするのに、十日かかった。
次の行は分かったのに、分かる理由を説明する方が難しかった。




