第七話 正しくても届かない
真ん中の線の行き先に赤で丸がつけてあった。
試験の翌日、審査室に呼ばれたリディアの前に、試験主任がその標準図を置いた。昨日、銀の棒を引き下ろした白髪の男だ。その隣に灰色の髭を短く刈った年配の男がいる。袖口にインクの染みがあり、机の上の帳面を指で押さえていた。
「昨日の図は、教本から試験用に写した際に一本の行き先を取り違えていた。照合の手順も省かれていた。院の不備だ。あなたの申し出がなければ、隣の受験者は手を焼いていただろう。中断は必要な判断だった。そのことは記録に残す」
リディアは赤い丸を見た。昨日の自分の指が、その場所を指していた。
「ありがとうございます」
「だが、あなたの実技は未完了だ。灯した術式を最後まで保てたかどうかを、私たちは見ていない。正しい指摘をしたことと、実技の技能を示したことは別のことだ。未完了のものは採点できない」
皿から指を離した時に、覚悟はしていた。それでも口の中が少し乾いた。
「昨日、実技を完了できなかった受験者は全部で十一人いる。自分から中断した者も、中断に巻き込まれた者もいる。全員に同じ扱いをする。追加の費用は院が持つ。代わりの実技を後日受けてもらう」
主任は紙を一枚めくった。
「課題はいくつか用意した。昨日と同じ保温の術式を正しい図で灯すもの。別の術式を描くもの。もう一つは、自分で選んだ術式の性質を確かめるもの」
「確かめる、というのは」
「それは私から説明しよう」
隣の髭の男が口を開いた。
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「古代術式研究室のバルドだ。今回の代替課題を見ることになった」
バルドは帳面から手を離して、リディアを正面から見た。
「三つ目の課題を選ぶなら、あなたは昨日の図の誤りを自分で確かめることになる。誤った図と直した図を同じ条件で灯して、何が違うのかを記録する。出力は安全な低いところまで落とす。どの条件で、何を測り、どうなれば誤りと言えるのか。それを検証の案として書いて、期限までに出す」
「期限は」
「十日後の昼の鐘まで」
リディアは赤い丸を見下ろした。
「それは、昨日止めたことへの……」
「罰ではない」
バルドは短く言った。
「採点は二つに分ける。一つは、通常の実技と同じものだ。直した図をあなた自身が描き、低い出力で灯し、保ち、安全に止める。それを私たちの前でやってもらう。もう一つは手順だ。図の誤りは主任が確かめた。今度見るのは、あなたが他の者にも実行できる確かめ方を作れるかどうかだ。あなたの書いた手順で、別の者が同じ差を見られるようにして、初めて研究になる」
リディアは膝の上で手を握った。
昨日、図を見た瞬間に熱が戻ると見えた。けれど、それをどうやって他人に見せるかは考えていなかった。前世でも今世でも、読めることは自分の中だけで完結していた。
一つ目を選べば、正しい図を灯すだけで済む。たぶん通る。父にも早く合格を見せられる。
それでも、昨日見えたものが他人の手の上でも同じになるのか、リディアは知りたかった。読めるだけで終わるなら、書庫の床で写本を抱えていた頃と変わらない。
「三つ目を選びます」
主任とバルドが目を見交わした。
「低出力での比較になる。あなたの魔力量で足りる範囲だ」
バルドはそう言って、課題の書かれた紙をリディアの前へ滑らせた。
「案は自分で書きなさい。誰の手を借りてもいいが、誰の名で出すかは一つだけだ」
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審査室を出ると、外は雨になっていた。
正門までの石畳が濡れて黒く光っている。迎えの馬車は門の外の車寄せで待つことになっていた。リディアは柱廊の端で足を止めて、雨脚を見た。走れば濡れる。走らなくても濡れる。
「エルフォード様」
黒い制服の騎士が一人、傘を差して柱廊の下へ入ってきた。昨日、演習場で見た騎士ではない。年かさの、口数の少なそうな男だった。
「団長より、門までお送りするようにと。馬車も門の内側まで入れるよう手配しております」
騎士の肩越しに正門の脇の詰所が見えた。軒の下に黒い外套の長身が立っている。部下に何かを指示して、こちらを見た。見ただけで、近づいては来なかった。
傘が差し出される。
リディアは傘の柄を見た。前世でも雨の日はあった。公爵邸から出かける時、傘を差しかけるのはいつも家令か知らない騎士だった。夫の指示だったのかどうか、考えたこともない。
今は、指示した人が門の脇に立っている。立っているのに、来ない。
「団長は、ほかに何か要るものがあれば申しつけるようにと」
要るもの。
審査室の机の上の、赤い丸がついた図を思い出した。公爵家の名で一筆あれば、代替課題などなしに通るのだろうか。父ならそう考えるかもしれない。前世の自分なら、そもそも試験を受けていない。
「何も要りません」
リディアは鞄を胸に抱え直した。中には課題の紙と、昨日の標準図の写しが入っている。
「傘は、門までお借りします。馬車は外で待たせていますので、そちらまで歩きます」
騎士は一度だけ詰所の方を見た。軒下の長身は動かなかった。騎士は頷いて、リディアの半歩後ろについた。
正門を出るまで、傘の上で雨が鳴っていた。詰所の前を通る時、リディアは前だけを見た。
車寄せの馬車に乗り込み、騎士に傘を返す。扉が閉まると、膝の上の鞄がしっとりと重かった。
家に着いたら、父に報告しなければならない。正式入院が条件だと言った父に。
父に見せられるのは合格の通知ではなく、十日後の期限だけだった。




