第七十八話 記憶を渡した周
院へ戻って三日目の昼、研究室の大きい卓に、ユリウスが清書した写しが並んだ。
層一から層三まで壁の位置ごとに番号を振ってある。揃った字の行と、自分の手の行は、紙の色を分けた。揃った字は白い紙に、自分の手は薄い黄の紙に。
アレクシスは窓際の椅子に座っていた。この三日、昼の鐘のあとに来て、夕の鐘の前に帰る。写しには触れず、リディアが読み上げたものを聞いている。
「続きから行きます」
リディアは採録済みの頁の、印を付けたところを開いた。層二の注記の、確保の事件より後の部分。
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同じ人生の、少しあとのことだった。
遺跡の石の廊下が崩れた。どこの遺跡かは書いていない。天井の石が落ちはじめた時、あの人が私の腕を引いて、壁際へ引き出した。そのまま私の上に覆いかぶさって、落ちてくる石を背で受けた。音が止むまであの人は動かなかった。
二人とも怪我をした。私は足を、あの人は背と肩を。それでも、二人とも生きていた。
その下に、揃った字の行が一つあった。保留の負担、術者から通過した身体へ。
リディアは読み上げてから、指で行を辿った。
「石が落ちはじめて、落ちるのが止んで、二人とも生きていた。そのあとに、負担が彼へ戻っています」
ユリウスが帳面に書いた。
「確保の事件と同じ形だね。始まって、終わって、生きてる。それで移る」
「この二つだけでは、決まりとまでは言えません。ここに書いてあるのは、この二回のことです」
「うん。二例、って書いておく」
注記の続きは、字が細かった。
その後、確保の側の追手が来た。あの人を、救えなかった。
揃った字の行。通過した身体、死亡。
その次の行に、二回目の起動が記されていた。術者は同じ。
さらにその下に、自分の手の短い文があった。戻った。また、書く。
「この文は、戻ったあとに書いています」
リディアは言った。
「死んだあの人が書いたものではありません。生きていた私が、次の人生で書いた」
戻った直後の揃った字の行で、保留の負担はまだ彼に付いていた。
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リディアは新しい紙を一枚取り、上から順に枠を描いた。
最初の人生の終わり。彼の死、保留。術者は私。
一回目の起動のあと。負担は彼。
同じ確保の事件を越える。負担は私へ。
石の廊下の崩落を越える。負担は彼へ。
追手で彼が死亡。二回目の起動。負担は彼のまま。
その下は、枠が一つでは足りなかった。起動の行は、そこから先も続いている。層が重なって溝が浅く、何本あるのかは数えられない。その間、負担の行は二人の名の間を何度か行き来していた。
リディアは大きな枠を一つ描いて、中に書いた。いくつかの人生。数は不明。
ユリウスが紙を覗き込んだ。
「ねえ。彼が死んで、次の起動、って並んでるけど、並びだけじゃ、勝手に戻ったのか、君が戻すと決めたのかは分からないよ」
「分かりません」
リディアは枠の外に書き足した。始動の仕方、この記録からは未確定。
窓際から、アレクシスが言った。
「俺の時は、毎回、自分で決めた」
「それは、あなたが話してくれたことです。あなたの証言の欄に書いてあります。この行とは、別に置きます」
アレクシスは頷いた。
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層三の、日常の文に戻った時だった。
最初の人生の研究室の場面が、もう一つあった。字の読みで言い合った日の、何日かあと。
あの人は、私をリディと呼ぶ。最初にそう呼ばれた日、母のほかにも、そう呼ぶ人ができたと思った。
リディアは読み上げる声を途中で止めかけた。止めずに、最後まで読んだ。
研究室が静かになった。
「覚えていますか」
アレクシスは窓の外を見ていた。少しして、こちらを向いた。
「覚えていない」
リディアはペンを置いた。
「最初の人生で、そう呼ばれていたことは分かりました。でも、書いてあったからといって、今のあなたがそう呼んでいいことには、なりません」
「分かっている」
「決めたら、私から言います。前に言ったとおりです」
アレクシスは、ほんの少しだけ目を伏せた。それから、もう一度頷いた。
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夕の鐘が近づいた頃、ユリウスが層二の後ろの方の写しを出した。
揃った字の行の中に、一つだけ、ほかと違う語の並びがあった。転写先、術者から通過した身体へ。
すぐ上に、負担の行がある。負担は術者に付いていた。
「委ねた時、死を負っていたのは私です」
リディアは二つの行を並べた。
「この時、死は動いていません。変わったのは、次から記憶をどちらへ写すか、だけです」
「記憶を渡すのと、死を移すのは、別の操作ってことか」
ユリウスが言い、リディアは頷いた。
リディアは図の、いくつかの人生の枠の下に、もう一つ枠を足した。委ねた人生。記憶の担当は私から彼へ。負担は私のまま。
転写先の行の下に、自分の手の文が続いていた。まだ覚えている。次からは、覚えていられない。
「渡した時に、私の記憶が消えたわけではありません。次の人生からは、私へ写されなくなるんです」
それより前の人生の分を彼にまとめて渡したとも書いていない。
ユリウスが、転写先の行の脇の、細い線を指した。
「これ、何だと思う。転写先から、元の転写先へ戻る経路がある。条件の項は、満ちた時」
リディアは線を追った。溜める器のような項から、一本だけ細い線が出て、術者の側へ戻っている。
器が満ちたら、あふれた分は、元の写し先へ流れる。
リディアは窓際を見た。
彼の記憶は摩耗していた。数百の人生を抱えて、どれがどの人生か、分からなくなっていた。そして自分は、直前の一つの人生だけを覚えて、十七の朝に目を覚ました。
「器があふれて、あなたへ写されるはずだった分の一部が、私の方へ戻ってきた。そう考えると、筋が通ります」
ユリウスが帳面に書いた。式にあふれの経路あり。症状と合う。流れを測ってはいない。
「それと、今、担当がまた私に戻ったわけではありません。担当は、今もあなたです。私へ来たのは、あふれた分だけ」
「確かめる方法は」
アレクシスが尋ねた。
「器を操作したり、もう一度戻ったりして確かめることは、しません」
リディアは即座に言った。
「それは、試してはいけない種類のことです」
アレクシスは、しばらく何も言わなかった。それから、低い声で言った。
「あふれていたのか」
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前の人生の十年。冷たい屋敷で、隣の席の空いた式典で、建国祭の日に死ぬまで。自分の一生だと思って、十七の朝に持ち帰ってきたもの。
自分が覚えている一生は、彼が抱えきれなくなった記憶だった。




