第七十七話 過去を知る権利
遺跡の外の休憩所は、崩れた見張り小屋の跡に、騎士が幕を張っただけのものだった。
日が傾きはじめていた。採った写しの束は、ユリウスが油紙で包んで鞄に入れた。兄は少し離れた石に腰を下ろし、ユリウスがその横で水を勧めている。二人とも、こちらには来なかった。
リディアは幕の下の木箱に座って、膝の上の帳面を開かずにいた。
アレクシスが、隣の箱に腰を下ろした。手袋は、もうはめ直してあった。
「一つ、聞いてもいいですか」
「ああ」
「私が始めたことを、あなたはどこまで知っていましたか」
アレクシスはすぐには答えなかった。膝の上で手を組み、幕の外の地面を見ていた。
「分けて言う」
いつもの言い方だった。
「前の君から聞いたことがある。これは自分が始めたことだから、と君は言った。委ねられた場面の、少し前だったと思う。何を始めたのかは、言わなかった。俺も聞かなかった。聞けば、君が答えなければならなくなると思った」
「それだけですか」
「それだけだ。ほかは、今日、君が読んだから知った」
リディアは帳面の表紙を指でなぞった。
「傷のことも」
「理由は知らなかった。いつからあるのかも。覚えている限り、ずっとあった」
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風が幕を揺らした。
リディアは言った。
「怖いことが、一つあります」
アレクシスがこちらを向いた。
「前の十年、私はあなたに冷たかったと思います。期待しないようにしていました。何を言われても、どうせ、と思っていた。早く諦めることが、上手でした」
言葉が、思っていたより平らに出てきた。
「それが、私の性格だと思っていました。でも、今日読んだ私は、あなたが死ぬのを何度も見て、見ていられなくなった人です。もし、あの冷たさも、諦めの早さも、ずっと前の私の疲れが残っていただけなら」
そこで、続きが出なくなった。
なら、今の自分は、どこからが自分なのだろう。
彼を選ばないと決めたことも。研究に戻ると決めたことも。この人の手首の傷を指で辿ったことも。
アレクシスは、違う、とは言わなかった。
「前の君がどうだったか、俺は全部は知らない」
彼は言った。
「だから、借り物かどうかを、俺が決めることはできない。俺に言えるのは、今の君を見ていたことだけだ」
「今の私」
「俺の書いた紙の、分からないと書いた欄を、埋めずに空けたままにした。比べた結果を話す時も、弱い根拠は弱いと言った」
リディアは顔を上げた。
「君の兄に、交換にはしないと言った。知っている危険を全部聞いてから、自分で決めると言った。昨日は、読みたかったはずの行の前で、先に層の順を書いた。君の兄が膝をついた時、例外にしないと言って、全員を外へ出した」
アレクシスは一つずつ、ゆっくり挙げた。どれも、自分が覚えている順番だった。
「それをしたのが前の君の疲れなのか、俺には分からない。ただ、俺が見ていたのは、どれも、決める前に確かめる人だった。早く諦める人には、見えなかった」
リディアは何も言えなかった。
胸の奥の怖さは、消えなかった。彼の言葉は聞こえていた。一つずつ、覚えのあることだった。それでも、それが自分のものだと言い切れる根拠にはまだならなかった。
「ありがとうございます」
それだけ言った。
「でも、まだ怖いです」
「分かっている」
アレクシスは、それ以上言わなかった。組んでいた手をほどき、膝の上に置いた。リディアの手の、指一本分だけ手前だった。
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リディアは帳面を開いた。
採録した頁のあとに、白い頁が続いている。自分の気持ちも、書き分ければ少しは見えるかもしれない。事実と、推測と、分からないこと。冊子ではいつもそうしてきた。
頁の上に書いた。
気持ち。
その下に、ペン先を置いた。
何も出てこなかった。怖い、と書けば済むのかもしれない。けれど、何が怖いのかを書こうとすると、借り物、という字が先に浮かんで、ペンが止まる。止まったところに書くことが、本当に今の自分の言葉なのかも、分からなかった。
インクが、紙の上で小さく滲んだ。
リディアはペンを上げた。
見出しだけの頁をしばらく見下ろした。それから、頁を戻した。
採録済みの最後の頁。層二の注記の、まだ読んでいない続きの位置を写しの番号で書き留めてある。戻った人生の、確保の事件より後のこと。
「少し休んでから、次の記録を調べたいです」
リディアは言った。
「今日の続きを。院へ戻ってから、写しで」
アレクシスは頷いた。
「付き合う」
「はい」
リディアは頁の端に、小さな印を付けた。
幕の外で、ユリウスが兄に何か言い、兄が短く答えるのが聞こえた。日はまた少し傾いていた。




