第七十六話 最初の人生
翌朝、兄は自分から石段の下へ降りてきた。
一晩、夢は見なかったと言った。顔色は昨日の昼より戻っていた。リディアは兄の手首で脈を数え、ユリウスとアレクシスとギルベルトに順に尋ねた。誰も反対しなかった。兄はもう一度、同じことが起きたら入口の外に残ると言い、それを全員が聞いた。
四人は、また奥へ入った。
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ユリウスは層二と層三の境から始めた。
待ちの拍を昨日より長く取ると、板の上で二つの層が離れた。層二の短い書き込みが、層三の行を斜めに断っている。逆はなかった。
「層三が先。層二が後。ここは迷わない」
リディアは帳面に書いてから、層三を見た。
二つの種類の字が、同じ層に並んでいる。片方は自分の手だった。人を指す字の省き、三本目の寝た線。署名の印は、文の終わりごとにあった。
もう片方には手の癖がなかった。字の大きさも間も、定規で測ったように揃っている。どの行にも署名はない。行の頭に、同じ一語が繰り返し刻まれていた。
リディアはその一語を読んだ。
「回帰術式」
声に出してから、喉が少し乾いた。
揃った字の行は、上から順に、起きたことを短く記していた。術者。通過した身体。魔力の貸し手。起動。その最初の行より上には何もなかった。前の起動を指す行もない。
「これが、一回目の起動の記録です」
「人の書いた字じゃないね」
ユリウスが板を見ながら言った。
「術式が自分で残した記録だと思う。書き手の癖が一つもない」
「隣の文は、私の手です」
リディアは自分の手の行へ灯りを寄せてもらった。最初の一行を読む。
戻ってきてから、書く。忘れないうちに。
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その文は、戻ったあとに、戻る前の人生を振り返って書いたものだった。
初めのほうは、研究のことばかりだった。古い術式の一つの字の読みで、あの人と言い合った。あの人はそれを数の字だと言い、私は違うと言った。その日は決着がつかなかった。あの人は帰りに、また明日と言った。
あの人。名は書いていない。けれど、何行か先に、公爵家の紋の形が小さく描き添えてあった。
リディアは読みながら、ペンを動かせなかった。
知らない研究室で、知らない自分が、彼と字の読み方で言い合っている。また明日、と言われて、それを書き残している。
「覚えていますか」
リディアが尋ねると、アレクシスは灯りを掲げたまま、首を横に振った。
「覚えていない。初めて聞く」
リディアはそのとおりに書いた。日常の記述。彼の記憶、なし。今回の読解で初めて知る。
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文の後半で、字が急に乱れた。
確保の術式が、私を捕らえようとした。あの人が前に出た。最後の出力が、あの人の左の手首から入った。
リディアは読む声を落とした。
あの人はその夜、息が浅くなっていった。手首に、術式の跡が刻まれていた。
文の脇に、図が一つ描かれていた。手首を内から見た形と、そこに走る細い線。短い線が三本、斜めに並び、一本だけ途中で折れている。
揃った字の行にも、同じ場所が記されていた。通過した身体。左の手首。刻印。
リディアはアレクシスを見た。
アレクシスは、灯りをユリウスに預けた。左の手袋を外し、袖を少し上げて、手首の内側を灯りの下に出した。
白く引きつれた痕だった。夜会で、手袋の縁からのぞいたもの。
細い線が三本、斜めに並んでいる。一本だけ、途中で折れていた。
「触れても、いいですか」
「いい」
リディアは指先で、痕の端を辿った。少しだけ盛り上がった皮膚が、図のとおりに折れていた。脈が指の下で打っていた。
「同じです」
指を離すと、アレクシスは袖を下ろした。手袋はまだはめなかった。
「この傷は、俺の覚えている周より前からあった」
彼は静かに言った。
「理由は、知らなかった」
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その先の行をリディアは一字ずつ読んだ。
あの人が死ぬのを、受け入れられなかった。私は回帰術式を起動した。兄様が、魔力を貸してくれた。
揃った字の行が、同じことを記していた。術者、リディア・エルフォード。通過した身体、アレクシス・ヴァルディエ。魔力の貸し手、セドリック・エルフォード。
壁際で、兄が小さく息を吸う音がした。
リディアは振り向いた。兄は膝をついてはいなかった。壁に背を預け、自分の名の行を見上げていた。
「兄様」
「大丈夫だ」
兄は短く言った。
「覚えていない。それだけだ」
揃った字の、その次の行には通過した身体の死が記されていた。そのあとに、一語が足されている。保留。
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その続きは、層二の注記にあった。層三の文と同じ手で、少しあとに書かれたものだった。
戻った人生で、同じ確保の事件が来た。
前の時、出力はあの人の手首から入った。だから今度は、院で習った防護の式を手首からの流れに合わせて組んでおいた。
確保の術式は、前と同じように前に出たあの人を捕らえた。最後の出力も、前と同じように放たれた。防護が、身体へ入る流れを遮った。出力が尽きて、術式が止まるまで防護はもった。
防護の余力は、そこで尽きた。あの人は腕を焼かれた。けれど、生きていた。
その下に、揃った字の行が一つ並んでいた。保留の負担、通過した身体から術者へ。
リディアは指で、文の行を上から辿った。
発動。出力が尽きる。生きている。
それから、層三の文へ指を戻した。
発動。出力が手首から入る。死ぬ。
同じ事件だった。違うのは、出力が尽きた時に、彼が生きていたかどうかだった。
「もう一つ、分けて読みます」
リディアは帳面に二つの欄を作った。
一つは、自分の文が書いている救い方。防護を組んだこと、出力が尽きるまでもったこと、余力が尽きたこと。
もう一つは、揃った字の行が書いている移動。保留の負担が、彼から術者へ移ったこと。
「戻った直後の行では、負担はまだ彼に付いています」
リディアは揃った字の、起動のあとの保留の行を指した。
「戻っただけでは、移っていない。移ったのは、この事件のあとです」
ユリウスが頷き、自分の帳面にも同じ二つの欄を作った。
注記の終わりに、自分の字で一行があった。
あの人に残っていた死が、私に移った。保留された死、と呼ぶことにする。
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リディアは帳面を閉じなかった。
最後に書いた行を見下ろした。術者、リディア・エルフォード。
彼を救うために戻したのは、兄でも、彼でもなかった。研究室で彼と言い合い、また明日と言われた自分だった。




