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二度目の人生では、公爵様と結婚しません ~前世の夫が、なぜか今度は私を守ろうとします~  作者: かなりあ


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第七十五話 託した言葉

 灯りの油を一度足してから、リディアは層一の行の前に立った。


 ユリウスが板を手前の溝だけに合わせ直す。奥の細かい字が沈んで、一行だけが残った。アレクシスは同じ角度で灯りを掲げている。腕を下ろしたのは、油を足した時だけだった。


 兄は戸口の内側の壁際に立っていた。外の線を止めてから、ほとんど口をきいていない。


「升ごとに読みます。ユリウスは溝の控えと照らしてください」


「いいよ」


 リディアは行の頭に指を近づけた。触れはしない。


 冒頭の字。次とも後とも読める形。けれどここでは右の払いの先がはっきり残っていた。後の字にはこの払いはない。


「次、です」


 その下の小さな添え字は、今も読めなかった。置き場所だけが、写しのとおりだった。


 一つ目の欠けていた升。入口の一行では溝が途切れていたところに、頼みの書き出しの字が、手前の層の深さで刻まれていた。


 二つ目の升。左の縦の払いの先が、内へ小さく跳ねている。入口ではその先の画が残っていなかった。ここでは最後まで読めた。覚える、の字だった。


 三つ目の升。頼みの添え字。


 人を指す字。二画目を省いて、次へ流している。


 終わりの小さな字は、相手を示す助けの字だった。


 ユリウスが帳面に書いた。


「一から六まで、欠けのない同じ一行で確認。二つ目は覚えるで確定。冒頭は次。添え字は読み不明のまま」


 それから、ペンの先で自分の控えを叩いた。


「証言から補った文が、石の字と合った。順番は逆だったけど、これで石の方が先の根拠になる」


 次はあなたが覚えていて。


 リディアはその一行を、声に出して読んだ。


 アレクシスは灯りを掲げたまま、壁の字を見ていた。腕は動かなかった。


「同じ言葉だ」


 少しして、彼は言った。


「俺が覚えている一番古い場面で、君がそう言った」


 それが最初の人生だったとは言えない、と彼は続けた。俺が覚えている最初が、そこだというだけだ。


 言い終えても、彼の目は壁の字ではなく、リディアの方にあった。


 行は、そこで終わっていなかった。


---


 同じ層の、少し下がった位置に、もう一行あった。入口の一行には続いていなかった行だった。写しにも溝の控えにもない。


 リディアは読んだ。


 私はもう、あなたが死ぬのを見ていられない。


 読み上げてから、声が少し遅れて自分の耳に戻ってきた。


 部屋の中が静かになった。ユリウスのペンも止まっていた。


 リディアはアレクシスを見た。


 彼は首を横に振った。


「その行は、覚えていない。聞いたのかもしれないが、分からない」


 リディアは頷いた。


 リディアは帳面の頁を改めた。


「改変の順も採ります」


 二行目の、見ていられない、の前に、短い線が二本引かれていた。打ち消しの線だった。その下に、別の字が一つだけ刻まれて、消されている。読めない。消したあとに、脇から書き直してある。


 東の壁の書き損じと、同じ直し方だった。


 リディアは書いた。


 層一、二行目。一行目より溝が浅く、刻んだ手は同じ。一字を打ち消して脇から書き直し。消した字は判読できず。


 彼の証言との照合。二行目は記憶になし。


 書きながら、リディアは二行目の打ち消しの線から目を離せなかった。


 何を書こうとして、やめたのだろう。


---


 背後で、何かが石に当たる音がした。


 振り向くと、兄が壁際で膝をついていた。片手を床につき、もう片方の手で額を押さえている。


「兄様」


 リディアが駆け寄るより先に、アレクシスが灯りをユリウスに渡して、兄の肩を支えた。


 兄はしばらく、息を整えていた。それから、短く言った。


「……来た。夢に似たものが。断片だ」


「何が見えましたか」


「分からない。もう、消えた」


 兄の顔は、灯りの下でも白かった。額に汗が浮いていた。


 リディアは立ち上がった。


「出ます。全員で、入口の外まで」


 兄が顔を上げた。


「私は、もう立てる。少し休めば」


「三つ目の条件です。誰か一人でも具合が悪くなったら、全員で入口の外まで戻る。その日は、もう入らない」


「膝をついただけだ」


「膝をつくのは、具合が悪いということです」


 リディアは言った。


「例外にはしません。決めた時に、私でも、ほかの人でも、と言いました」


 兄は妹の顔を見て、それから目を伏せた。


「……分かった」


 ユリウスが板を畳み、リディアは帳面を閉じた。読みかけの頁に、指を一本だけ挟んだ。


---


 帰りの通路も、アレクシスが前を歩いた。兄はユリウスの肩を借りて、自分の足で歩いた。崩れやすい二か所では騎士がまた一人ずつ立っていた。


 入口の外に出ると、外はまだ昼の明るさだった。思っていたより日は高かった。


 ローランが騎士に命じて、石段の脇に毛布を敷かせた。兄はそこに腰を下ろし、水を一杯飲んだ。顔色は、少しずつ戻ってきた。


「なぜ兄様にだけ来たのか、今日は調べません」


 リディアは兄の前に膝をついて言った。


「今は休んでください。明日もう一度入るかどうかは、兄様が休んで、皆がいいと言ってから決めます」


 兄は水の器を見下ろしていた。


「明日、もしまた同じことが起きたら、私は入口の外に残る。お前たちの足を止めたくない」


「その時に、皆で決めます」


 兄は何か言いかけて、やめた。


---


 日が傾きかけた頃、リディアは石段の端に座って、閉じた帳面を膝に載せていた。


 アレクシスが少し離れたところに立っていた。灯りはもう消してある。手袋をはめた左の手が、外套の脇で軽く握られていた。


「あの一行を書いた時、私は」


 リディアは言いかけて、止まった。


 自分ではない。けれど、自分の字だった。


 あなたが死ぬのを見ていられない。彼が死ぬのを、一度ではなく見たあとの言葉なのだろう。見ていられなくなって、覚えていることを彼に頼んだ。


 壁一面の、まだ読んでいない細かい字。層二と、層三。


 アレクシスがこちらを見ていた。何も聞かなかった。


 リディアは帳面を開き、層三の欄の頭に、小さな印を一つ付けた。


 記憶を託すより前に、何が起きたのか。

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