第七十二話 知らされるべきこと
研究室を出たあと、話しておきたいことがある、とアレクシスの方から誘われた。公爵邸へ向かう馬車の中では二人ともほとんど口をきかなかった。
書斎に着くと、窓の外はもう夕暮れの色だった。窓際の卓に、彼は紙を一枚置いた。アレクシスの字で、短い行がいくつか書いてある。
「昨日、君がユリウスと何を比べたのかは、まだ聞いていない」
アレクシスは言った。
「聞く前に、俺の側のことを渡しておきたい。君が説明したあとでは、後出しになる」
リディアは紙を手に取った。
円と三本の線。前の人生で見た。場所、地下の遺構の壁。北の入口。いつの人生か、不明。複数。
その下に、もう一行。
どこかの人生の彼女から聞いた話。自分はどこかに書き残している、と。どこに何を、は覚えていない。聞いたのが、最古の場面の前後か、不明。
同じく聞いた話。回帰を終わらせる方法がある、と。それをすれば俺が死ぬ。完成させないで、と頼まれた。どういう方法か、どこにあるかは、聞いていない。いつの人生か、不明。
「騎士団が地下の壁を見つけて、写しが院へ回った時」
アレクシスは紙から目を上げずに言った。
「あの図形を、知っていると思った。前の人生で、何度か見ている。それに、君から聞いた話がある。君がどこかに書き残している、と。その二つを並べて、書き手は君かもしれない、と考えた」
リディアは紙を持つ手に力を入れた。
「いつから、そう考えていたんですか」
「研究室で、拓本を一緒に埋めた頃には」
「それなのに、言わなかった」
「言わなかった」
アレクシスはそこで、ようやく顔を上げた。
「疑っていただけだ。根拠は、図形を見た覚えと、聞いた話。どちらも、俺の記憶の中にしかない。黙っていたのは、君が傷つくと思ったからだ。自分の知らない自分が、石に何かを書いていた。そう聞かされるのは、怖いだろうと思った」
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リディアはしばらく黙っていた。
昨日、ユリウスの前で、自分と同じ手に見えると言ったばかりだった。
この人は、それをずっと前から疑っていた。
「もっと早く、知りたかったです」
声は思ったより静かに出た。
「あなたの記憶の中にしかない、というのは分かります。根拠が弱いことも。でも、弱い根拠でも、私は自分で確かめたかった。傷つくかどうかは、聞いてから私が決めることです」
「そうだな」
アレクシスは否定しなかった。
「それも、俺が決めていた」
リディアは紙を卓に戻しかけて、手を止めた。しばらくそのまま持っていてから、膝の上に置いた。
責めたい気持ちは、まだ残っていた。けれど、今日この人は、自分が研究室で何を確かめたかを聞く前に、この紙を出した。問い詰められる前に、自分に不利なことを渡した。
「話してくださって、ありがとうございます。今日、先に」
それから、紙の空いている欄を指した。
「いつの人生か、不明。どこに何を、覚えていない。ここは、空けたままでいいんですね」
「分からないところを、埋めたくない。埋めたら、俺の推測が君の資料になる」
リディアは頷いた。それから、二つ目の話に目を戻した。俺が死ぬ、と書かれたところで、視線が止まった。
「これも、聞いたことだけですか」
「聞いたことだけだ。式は見ていない。見ても、俺には読めない」
「完成させないで、と私が言ったんですね」
「そう聞いた。何を完成させるな、なのかは聞いていない。聞けなかったのかもしれない。覚えていない」
リディアはその行の横に、小さく印を付けた。今は、それ以上を確かめる手立てがなかった。
それから、自分の帳面を開いて、昨日の比較の結果を話した。書き手は自分だと考えて調べを進めること。ほかの層は、まだ見ていないこと。
アレクシスは最後まで聞いて、紙の上の自分の行の横に、一つだけ書き足した。北の入口と北の一行、彼女と同じ手。ほかは未確認。
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「北の奥へ、行こうと思います」
リディアは言った。
「書き手が私なら、奥にはもっと私の書いたものがあるかもしれません。でも、奥のことは、あなたの方が知っているはずです。知っている危険を、全部教えてください」
アレクシスは新しい紙を引き寄せた。
「知っていることから書く」
一行ずつ、彼は書いた。
奥の後から足された線。前の人生で、北の奥で同じ形を見た。君が回収の型と名づけた形。自分では式を読めない。路地の線とは、形が同じに見えた。いつ誰が足したかは知らない。君が読むと光るというのは、今世の北の調査の報告で知った。
奥へ続く通路。崩れやすい箇所が二つ。前の人生で、騎士が一度足を取られた。
それから、筆が止まった。
「ここから先は、知らないことだ」
彼は線を一本引いた。
「奥の、記録が刻まれている部屋。前の人生で、入ったことはない。入口までは行った。中で何が起きるかは、知らない。知っているふりはしない」
リディアは二枚の紙を並べた。知っている危険と、知らない場所。
知らない場所の欄が、思っていたよりずっと広かった。
「それでも、行きます」
リディアは言った。
「院と、管理しているところの許可を取ります。誰と行くか、どこで引き返すかは、私が決めます。危ない線のある場所では、あなたに前を歩いてほしい」
アレクシスはすぐには答えなかった。紙の上の、知らない場所の欄を見ていた。
それから、頷いた。
「許可が出たら、護衛を手配する。ギルベルトと、ローランの隊から何人か。入口と退路に人を置く。君が引き返すと決めたら、その場で引き返す」
「行くな、とは言わないんですね」
「言わない。約束した」
アレクシスは指示書の控えを思い出したように、一度だけ目を伏せた。
「つらいのは、説明する方だ。だが、つらいからといって、君に知らせなくていいことにはならない」
リディアは二枚の紙を畳んで、帳面に挟んだ。




