第七十話 君が書いたのか
バルドの立会いの帳面が、作業台の端に開かれていた。
「持ち込みの資料を確かめます。帳面三冊は、どなたのものですか」
「私が六つか七つの頃から九つの頃まで使っていたものです。母の箱で保管されていて、鍵の帳面にも、私の部屋へ出した一晩のほかに記載はありません。持ち出しは、父が許しています」
リディアは今朝の紙を差し出した。バルドはそれを読んで、帳面の表紙と紐の結び目を一冊ずつ確かめた。
「表紙の擦れも紐の跡も、長くしまってあったものに見えます。来歴は、ご本人とご家族の証言と保管の帳面まで。私が立ち会って確かめたのは、今日この部屋に持ち込まれた時の状態です」
何のための比較かは、尋ねなかった。閲覧が終わるまでここにおります、と言って、窓際の机に戻った。
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作業台には三つの資料が並んだ。母の箱の帳面と、その写し。リディアが今使っている帳面。右に、ユリウスの北の入口の採録。
「これは僕が採ったもの。北に初めて入った日に、入口の内側の壁で。君がお兄さんの写しと見比べてる間に、図形の溝の深さを測って、交わるところを拡大して描いた。どっちの溝がどっちの縁を切ってるかも、その場で注記してある。術式ではない一行の方も、同じ日に」
ユリウスは束の中から一枚を抜いた。円と三本の線が紙いっぱいに大きく描かれ、交点ごとに小さな円で囲んで、細かい字の注記が付いていた。
「先に、君が今朝書いたものを見せて」
リディアは書庫で伏せておいた紙を渡した。比べる前に書いた四つ。人を指す字の省き、三本の角度、交わりの順、消さずに横へ足す引き直し。
「この四つで見る。途中で気づいたことは、別に書く」
二人で始めた。
角度から見た。帳面の二十七か所のうち、描きかけでないものが十九。ユリウスは写しの上でその角度を一つずつ測り、採録の角度と並べた。どれも三本目だけが少し寝ていた。
「合う。でも形は真似できる」
次に、交わりの順。ユリウスは帳面の原本を窓の光へ傾けた。
「見て。ここ、真ん中の線の墨が、右の線の上に乗ってる。右の線のかすれが、真ん中の線のところで途切れずに下を通ってる。だから真ん中があと」
十九か所のうち、墨の重なりがはっきり読めたのは十四か所だった。残る五か所は、墨がかすれていたり、上から描き直してあったりして、どちらが先か分からない。ユリウスはその五か所を外し、残る十四か所の結果だけを書いた。どれも真ん中の線が最後だった。
それから採録の交点を指した。
「石の方。あとから彫った溝は、先に彫った溝の縁を削る。ここも真ん中の溝が両側の縁を切ってる。こっちも真ん中が最後」
最後に、人を指す字の省きと引き直しを見た。省きは幼い帳面にはなく、今の帳面と北の一行の採録で同じところが途切れていた。引き直しは、帳面の歪んだ円と、入口の円の外側の浅い溝。
「石は消せないから、横に彫り直すのは誰でもそうなる。これは弱い」
ユリウスはそう言って、引き直しの欄に小さく印をつけた。それから、採録の一点を指で押さえた。
「途中で気づいたこと。三本目の終わり。帳面の丸は、確かめられるものはどれも、線の最後を小さく内へ返してる。石の三本目も、溝の終わりが内へ曲がって浅くなってる。これは今朝の四つには入ってない。だから別に書く」
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ユリウスはしばらく黙って、資料を見比べていた。
「それと、もう一つ」
彼は自分の古い帳面を開いた。北の遺跡で、リディアが一項読むたびに次の項を紙に書いて預けた日の頁だった。
「読む前に君が書いた四つの予測。四度とも、壁と一致した。あれは君の勘で、証拠にはならないと思ってた。でも、書き手が君と同じ手なら、勘の出どころに説明がつくかもしれない。説明じゃなくて、候補だけど」
それから、短く言った。
「強いよ。交わりの順と、三本目の返し。形だけ真似しても揃わない。人を指す字の省きは、今の君の手と石。同じ人の手だと考えるのがいちばん素直」
リディアはすぐには答えられなかった。
幼い帳面の、頁の隅の丸を見た。墨がにじんで、円が少し歪んでいる。その隣に、ユリウスの採録の、石の溝を写した大きな図がある。冷たい石に彫られた、同じ形。同じ順で引かれた三本の線。同じように内へ返した終わり。
この丸を描いた時、自分が何を思っていたのかは覚えていない。けれど、同じ丸が、知らない誰かの手で石に彫られていたのではなかった。
自分の手に、見えた。
膝の上で指先が冷たくなっていた。ユリウスもバルドも、何も言わなかった。窓の外で、誰かが中庭を横切る足音がした。
「私の書き方です」
声は少し掠れた。
「今日比べた範囲で言います。北の入口の図形と、術式ではない一行は、私と同じ手に見えます。書き手は私だと考えて、調べを進めます。確かめるのは、いつ書かれたかの記録が読めた時です」
「全部の層とは言わないでね。東の壁も地下も、今日は見てない」
「はい。ほかは、別に調べます」
窓際で、バルドが立会いの帳面に、閲覧した資料の名前と終わりの時刻を書き足していた。
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バルドが記録を資料庫へ戻しに出ていったあと、ユリウスが帳面を閉じた。
「ねえ」
声の調子が変わっていた。
「君が小さい頃に描いてた形を、いつのものか分からない石に、君と同じ手が彫ってる。僕にはそれを説明できない。君は、説明できる材料を持ってる。そうでしょ」
リディアは答えなかった。答える前に、もう一人に聞かなければならなかった。
「明日、話します。材料の中には、私の記憶ともう一人の記憶が入っています。二つを分けて話したいので、その人にも来てもらいます」
「約束の期限の内だね」
「はい」
リディアはその場で短い手紙を書き、ニコに頼んで騎士団の詰所へ届けてもらった。明日の昼、研究室へ。ユリウスに話す。私の分と、あなたの分を分けて。
帳面三冊を鞄に戻しながら、リディアは表紙の傾いた名前を見下ろした。
書き手が自分なら、知らない人生が資料の中にある。




