第六十九話 母の箱
母の箱は、あの夜のあと執事が書庫の奥の棚に戻していた。
革の角が擦れて、留め金の色が鈍くなっている。北の一行の校訂を頼んだ翌朝早く、リディアは箱を書庫の机に下ろしてから、廊下の侍女を呼んだ。来てくれたのは、母の代からこの家にいる年配の侍女だった。箱を見ると、少しだけ目を細めた。
「奥様のお箱でございますね」
「中の帳面のことを、教えてほしいの。いつ頃のもので、誰がしまったのか」
侍女は箱の底の紐でまとめた三冊を見た。
「お嬢様が六つか七つの頃から、九つになられる頃までのものかと存じます。奥様がお嬢様の描いたものを捨てずに取っておかれて、ご自分の手記と一緒にこの箱へ入れておいででした。奥様がいらっしゃらなくなってからは、旦那様のお言いつけで、書庫の奥にしまわれました」
「その間に、誰かが開けたことは」
侍女は少し考えた。
「私が存じている限りでは、ございません。ただ、鍵は執事が預かっておりましたので、全部の日を私が見ていたわけではございません。執事にもお確かめください。それから、先日お嬢様のお部屋へお出ししたのは執事でございます。あの晩のあと、また書庫へ戻しております」
リディアは聞いたことを紙に書いた。ミレイユと襟飾りを選んだ晩に、一冊目の表紙と最初の頁だけを見たことも、忘れずに書き足した。
侍女は執事に鍵の出し入れを確かめてくると言い、持ち出してよいかも父に伺っておきますと言い添えて、書庫を出ていった。
---
リディアは箱の中身を机の上で二つに分けた。左に母の布張りの手記が四冊、右に自分の帳面が三冊。
手記は、今は通して読まない。先に自分の帳面を見ると決めていた。
紐をほどく前に、別の紙を一枚出した。研究室で写しを見た時に似ていると思ったところを、帳面を開く前に書いておく。
一つ、人を指す字の二画目を省いて、次へ流す運び。二つ、円と三本の線の角度。三本目だけが少し寝ている。三つ、線が交わるところで、どの線を最後に引くか。写しの図形では真ん中の線が両側の線の上を通っているように見えた。四つ、線を引き直す時、前の線を消さずに横へ一本足す癖。
見てから書けば、見たものに合わせて書いてしまう。だから先に書いて、紙を伏せた。
それから、紐をほどいた。
一冊目は、表紙の傾いた名前と庭の木と犬のあとに、花や窓や母の顔らしい丸が続き、覚えたばかりの字で自分の名前が何度も書いてあった。余白には読めない記号のようなものがぽつぽつと並んでいる。
二冊目の三頁目の右下の隅で、手が止まった。
円の中に、短い線が三本。
角度が、少しずつ違っていた。
息を詰めて、次の頁をめくった。隅に、また同じ形があった。その次にも。描きかけて線が一本足りないもの。円が歪んで、上から描き直したもの。描き直した線の横に、前の線が消されずに残っていた。
三冊目にもあった。二冊で二十七か所、どれも頁の右下の隅だった。
---
リディアは伏せた紙を表に返した。
四つのうち、角度と引き直しは帳面の上で見えた。交わりの順は、墨の重なりを原本で見なければ分からない。人を指す字の省きは、字を覚え始めたばかりの帳面には出てこない。出てこないものは、出てこないと書いた。
先に決めた四つ以外の項目は、あとから足さなかった。
図形だけを切り出しては写さなかった。周りの落書きも描き直した線も、頁の位置ごと写した。墨の重なりは写しでは分からないので、原本も持っていく。
写し終える頃には書庫の窓に日が高く差していた。
---
最後に、母の手記の目録を作った。
通して読めば、手が止まる。止まれば、目録が終わらない。一冊ずつ表紙の内側の日付を書き抜き、頁ごとに何について書かれているかだけを拾っていく。庭の薔薇の植え替え、父と出かけた日、セドリックの熱、母自身の体の具合。
母の字は細くて、少し右へ傾いていた。
ある頁で、見出しの代わりに一行だけ書いてあった。
リディが、また帳面の隅に丸を描いている。
リディアはペンを止めた。
母は見ていたのだ。隅に丸を描く小さな手を。見て、書き留めて、捨てずに取っておいた。
喉の奥が少し熱くなった。それでも、ペンは置かなかった。目録に書いた。二冊目、十四頁、帳面の隅の図形についての記述、一行、日付あり。
母の体の具合が書かれた頁にも、同じように番号を振った。誰が探しても、どこに何があるか分かるように。母を懐かしむ気持ちを抱えたままでも、目録は作れる。
執事が戸口に来て、鍵の出し入れの帳面にも、あの晩のほかに記載はございませんでした、と告げた。旦那様のお許しも出ております、と。
リディアは帳面三冊と、目録と、写しの束を鞄に入れた。手記は箱に戻して、執事に鍵を頼んだ。
自分の目には、もう同じに見えている。だから、他人の目で確かめたい。




