第六十八話 次はあなたが覚えていて
翌日の昼の鐘のあと、書斎の窓は開いていた。
アレクシスは前の晩よりも顔色がよかった。家令の話では夜更けに灯りを消して、朝の鐘まで起きてこなかったという。
窓際の卓に冊子を開くと、彼の方から口を開いた。
「昨日の続きだ。いちばん古い場面の言葉を、思い出したと思う」
リディアはペンを取った。
「無理にたどったのではない。眠る前に、あの場面だけを順に思い返した。手を握られていたところから。崩れているところは、崩れたままにした」
彼は一度、息を整えた。
「次はあなたが覚えていて」
書斎の中が静かになった。
「そう言われた。前にあると思っていた言葉は、次は、だった。覚えていて、は終わりの方だ」
それから、彼は少しだけ言い足した。
「だが、確かめたわけではない。昨日、君が写しを並べているのを見た。それに引っ張られていないとは言えない」
「その声は」
「調子は思い出せない。言葉だけが残っている」
アレクシスは卓の上の冊子を見た。
「あの言葉のあとのことは、自分のこととして覚えている。だから、あの時に何かを受け取ったのだと思う。何をどう受け取ったのかは、分からない」
リディアは左の欄に、その一文を書いた。確かさの欄には、言葉は高く、声の調子は不明、と。
それから、もう一つ聞いた。
「ユリウスに話す件は」
「候補の文だけなら、渡していい。どこから出た文かは、約束の日まで待ってくれ」
「分かりました。出典は伏せたまま、校訂だけ頼みます」
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リディアは鞄から北の写しを出して、卓いっぱいに広げた。
残す術式の最後の数行と、その下の、術式ではない一行。
術式の構文は持ち込まず、書き添えた言葉として古い書き言葉の並びで読む。最初に写した日から、そう決めていた。
リディアは別の紙に、一行の升目を順に書き出した。
冒頭の字と、その下の添え字。欠けた升が三つ。人を指す字に似た字。終わりの小さな字の跡。
その下に、候補の文を古い書き言葉の並びに直して置いた。古い手紙で頼みごとを書く時は、時を示す語が先に来て、頼みの書き出しを示す字、頼む動詞、頼みの添え字と続き、頼まれる相手が終わりの方に来る。
次は。どうか。覚えて。いて。あなたが。
今の言葉に直すと、頼みの書き出しの字は落ちる。けれど古い手紙では頼む動詞の前にほとんど必ず置かれていた。
「一つずつ、合わせます」
アレクシスが黙って頷いた。
冒頭の字は、次として読める。後と読む余地は消えない。その下の添え字は、時の語に付く助けの字なら置き場所は合うが、読みは今も分からない。
欠けた升は三つ。一つ目に頼みの書き出しの字、二つ目に覚えるの字、三つ目に頼みの添え字。数は合う。
二つ目の升には左の縦の払いだけが残っていた。払いの先が、内側へ小さく跳ねている。古い手紙の写しにも院の古文書にも、覚える、記すの字は普通の言葉として何度も出てきた。その書き出しは、こう跳ねる。
人を指す字は、あなたに当たる。終わりの小さな字の跡は、相手を示す語に付く助けの字なら、置き場所は合う。
リディアはペンを止めた。
「矛盾は、しません。でも、合うというだけです」
「分かっている」
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ユリウスが来たのは、日が少し傾いた頃だった。
研究室から綴りを抱えてきて、家令に案内されて書斎へ入った。窓際の卓と、そこにいるアレクシスを見て、一瞬だけ眉を上げたが、何も言わなかった。
「ねえ、先に僕の分から出すよ。約束どおり、材料なしで拾った。君の写しじゃなくて、北で僕が測った溝の深さの控えから」
リディアは候補の紙を裏返して、卓の端に置いた。
ユリウスが帳面を開いた。
「欠けた幅は、冒頭の字から人っぽい字まで、字三つ分。誤差はあっても三つ半まで。二つ目の升に縦の払いの溝が残ってて、先が内へ跳ねてる。人っぽい字のあとに、小さな字の溝が一つ。読めるのは、ここまで」
リディアは候補の紙を表に返した。
「これは、ある人の証言から出た文です。誰の証言かは、約束の日まで正式には話せません」
ユリウスの目が、一度だけアレクシスの方へ動いた。
「……正式には、ね。分かった。聞かないでおく」
彼は帳面と紙をしばらく見比べてから、端に書き込んだ。
「幅も跳ねも、置き場所も合う。校訂には、証言に基づく補い、出典は未開示、って書く。遺跡だけから独立に読めたのは、三つの字と、幅と、払いの跡まで」
「それでお願いします」
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ユリウスが帳面を閉じかけた時、リディアは写しの人を指す字に目を留めた。
二画目を省いて、次へ流す運び。
自分の帳面でも、急いで写す時、同じところで線を省く。誰に習ったのでもない。
けれど、この写しを作ったのは自分だった。自分の写しに自分の癖が出ていても、何の手がかりにもならない。
「ユリウス。溝の控えでは、人を指す字の二画目はどうなっていますか」
ユリウスが閉じかけた帳面を開き直した。
「浅い。途中で途切れて、次の字の方へ寄ってる。石の方も、省いてあるってこと」
リディアは息を止めた。
石の方にもある。それでも、古い字を写し続けるうちに、自分の手が石の癖を覚えただけかもしれない。比べるなら、古い字を知る前の自分の手でなければならない。
母の箱の底に、紐でまとめた薄い帳面が三冊あった。小さい頃に使っていたもの。いちばん上の一冊しか、まだ開いていない。
「伯爵邸に、私が小さい頃の帳面があります。それと、この溝の控えを比べます。署名と同じかどうかは、まだ分かりません」
次はあなたが覚えていて。
彼に記憶を託した声と、遺跡に一行を書き添えた手が、一つに重なりかけていた。




