第六十七話 誰の呼び方
採録は、夕の鐘のあとも続いた。
家令が灯りを入れていった。窓の外はもう暗く、硝子に書斎の中が映っている。リディアは北の一行の写しを脇へ寄せ、冊子の右の欄に戻った。聞いた話の欄。どこかの人生の自分が、彼に話したこと。
いくつ目かの行を書き終えて、リディアは時期の欄で手を止めた。
「ここは、冬でいいですか。それとも」
「リディ、そこは春だ。雪が――」
アレクシスの声が、途中で切れた。
リディアはペンを持ったまま、顔を上げた。
彼は口を閉じていた。卓の上の手が、指を開いたまま止まっている。院の面会室で、茶器の把手に手を伸ばした時と同じだった。あの時も、彼はこう呼んで、それから黙った。
「今、リディと呼びました」
「……ああ」
「その呼び方は、母しか使いませんでした。兄も父も使いません。前の人生の十年、あなたから聞いたことは一度もありません」
リディアは静かに言った。
「どこで、聞いたんですか」
アレクシスは長いあいだ答えなかった。灯りの油が、小さく音を立てた。
「分からない」
ようやく出た声は、かすれていた。
「どの人生だったか、分からない。誰がそう呼んでいたのかも。口にしてから、その呼び方が出たと気づいた」
彼は手を卓から下ろした。
「思い出そうとすると、別のものが出てくる」
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リディアは冊子に目を落とした。
聞きたいことは、まだあった。母を知っていたのか。どこかの人生で、母が彼の前で自分をそう呼んだのか。それとも、どこかの自分が、自分からそう呼んでほしいと言ったのか。
けれど、目の前の人の顔を見て、それ以上は聞かなかった。
死ぬ場面だけは崩れずに戻ってくる、と彼は言った。思い出せと言えば、たぶん彼は思い出そうとする。その途中で何が出てくるのかは、自分には見えない。
「思い出さなくていいです」
アレクシスがこちらを見た。
「今、どこで聞いたかを確かめなくても、困ることはありません。記録には、由来不明と書いておきます」
リディアは冊子の端に書いた。リディという呼称。本人の使用、二度。由来、本人にも不明。
それから、ペンを置いた。
「ただ、一つだけお願いがあります」
「言ってくれ」
「今の私の呼び方は、勝手に決めないでください」
声は硬くならなかった。自分でも、思ったより穏やかに言えた。
「リディは、母の呼び方です。今のあなたにそう呼ばれていいかどうか、私はまだ決めていません。嫌だ、というのとも違います。まだ、決めていないんです。決めたら、私から言います」
アレクシスはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「リディア」
一つずつ、音を確かめるような呼び方だった。
「……分かった。決めるのは、君だ」
「はい」
リディアは、今の呼ばれ方を胸の中でなぞった。前の人生の十年、名前で呼ばれたことは数えるほどしかなかった。今世の彼は、いつも君と呼んでいた。少しぎこちなくて、それでも、確かに今の自分の方を向いた呼び方だった。
アレクシスは冊子に目を落とし、それから閉じた。
「今日は、ここまでにしたい」
「私も、そう思っていました」
リディアは冊子を鞄にしまった。立ち上がる時、彼はもう一度だけこちらを見た。何か言いかけて、言わなかった。
玄関で、ギルベルトが外套を受け取って待っていた。馬車の扉が閉まる前に振り返ると、書斎の窓にはまだ灯りが残っていた。
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夜更けの見回りで、ローランは公爵邸の廊下を歩いていた。
詰所の夜番と交代する前に、屋敷の中を一巡りするのは毎晩のことだった。今夜は、エルフォード嬢の馬車が門を出たのを見届けてから、もうずいぶん経っている。
書斎の扉の下から、細く灯りが漏れていた。
まだ起きているのか、と思った。路地の件のあと、団長は午前の休みを一度取っただけで、また夜更かしに戻っている。
扉の前を通り過ぎかけて、ローランは足を止めた。
中から声がした。
「リディア」
団長の声だった。誰かと話している調子ではなかった。
少し間があって、もう一度。
「リディア」
同じ名前を、同じ低さで。呼ぶというより置いてみて、確かめているような声だった。しばらく何も聞こえず、それから、また一度。
ローランは扉の前で、腕を組んだ。
あの令嬢の名前を団長が口に出すのはめったに聞かない。人前では家名で呼ぶ。本人の前では君、と言っているらしい。それが今、誰もいない書斎で、一つの名前を何度もなぞっている。
何があったのかは知らない。聞くつもりもなかった。
ローランは扉を二度、軽く叩いた。
「団長。ローランです。油、もう残り少ないでしょう。そろそろ寝てください」
中の声が止んだ。
しばらくして、返事があった。
「……ああ。もう消す」
ローランは扉の前で待った。やがて、扉の下の細い灯りが消えた。
それを確かめてから、ローランは廊下の先へ歩き出した。見回りは、まだ半分残っている。
名前を一度呼ぶにも、団長には確かめる時間が要るらしい。




