第六十六話 一番古い記憶
二日後の昼、研究室の作業台に北の写しが広げてあった。
残す術式の最後の数行と、その下の、術式ではない一行。欠けた溝のあいだに、形の分かる字が三つだけ残っている。冒頭には次とも後とも読める字があり、その下に小さな添え字が付いている。終わり近くには人を指す字に似た字が一つ。
ユリウスは写しの横に自分の帳面を置いて、しばらく黙っていた。
「ねえ」
顔を上げずに言った。
「この書き手、どうして同じところで同じように書き損じたんだと思う」
リディアは手を止めた。
「何度も、やり直す人なら――」
言いかけて、口を閉じた。その先にあったのは、写しから読めることではなかった。
ユリウスが顔を上げた。
「ほら、それ」
「それ、というのは」
「このところ、書き手の話になると君は答えかけて止まる。今日で三度目。東の壁の一区画では、同じ人が何度も書き直した跡が見えた。僕が層を分けて見た範囲だけだけどね。北と地下も同じ人かどうかは、まだ形が似てるとしか言えない。その先を詰める手がかりが、写しの外にある気がするんだ。君はそれを持ってて、出せずにいる。違う?」
責める口調ではなかった。帳面の欠損を指摘する時と、同じ声だった。
リディアはすぐには答えなかった。
ユリウスの言うとおりだった。冊子の中には書き手を追うのに役立つかもしれないことが書いてある。けれど、それはアレクシスの記憶で、彼が自分に話したことだった。
「あります」
リディアは言った。
「でも、他の人の記憶が入っています。その人に、あなたへ話していいかを相談させてください。五日のうちに、話せるかどうかを返事します」
ユリウスは少し考えてから、頷いた。
「五日ね。分かった。その間、書き手が誰かっていう結論は、僕も出さないでおく。材料が揃わないうちに書くと、あとで直すのが大変だから」
それから、写しを指で叩いた。
「その間に、僕はこの一行の欠けた幅と、溝に残ってる線を、材料なしで拾っとく。あとで君の材料と合わせた時に、どっちから来た読みか分けられるように」
「お願いします」
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夕の鐘の少し前、リディアは公爵邸の書斎にいた。
ユリウスに言われたことをそのまま伝えた。アレクシスは黙って聞いて、それから短く言った。
「約束の日までに、考えて答える」
「はい。今日決めなくていいです。約束の日までに、話していいかどうかの返事をください。話さない、という返事でも構いません」
「分かった」
リディアは冊子を開いた。
「今日は、一つ聞きたいことがあります。あなたが思い出せる中で、いちばん古いのは、どの場面ですか」
アレクシスは窓の方へ目をやった。
答えが出るまでに、長い間があった。
「手を握られていた」
アレクシスは、一つずつ確かめるように言った。
「どこだったかは、はっきりしない。部屋の中だったと思う。誰かが俺の手を握っていて、覚えていて、と言った。その前にも言葉があった気がする。だが、そこは崩れている」
「覚えていて」
「頼まれた。それだけは確かだ」
リディアはペンを動かしかけて、止めた。
「誰の声でしたか」
「君だった、と思う」
アレクシスは少し間を置いた。
「だが、そう思う理由が、自分の記憶の中にあるのか、あとで聞いた話の方にあるのか、分からない。それより前のことも、知っていることはある。どこかの人生の君が、話してくれたことだ。どの周でどう死んだか。何が起きたか。それは俺が見たのではない。聞いたことだ。長いあいだ思い返しているうちに、見たことと聞いたことが混じった」
「その場面と、あなたが覚えていることには、関係があると思いますか」
アレクシスは少し考えた。
「あると思う。あの場面から先のことは、自分のこととして覚えている。だが、なぜそうなるのかは知らない」
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リディアは冊子の新しい頁に線を引いた。
左に、本人が見たこと。右に、本人が聞いたこと。
左の欄に、最古の場面と、覚えていて、を書いた。声の主の横には、本人の推定、と添えた。右の欄には、どこかの人生の私から聞いた話、とだけ書いた。
書き終えて、左の欄をもう一度読んだ。
覚えていて。
頼む言葉だった。誰かが、誰かに、残してほしいと願った言葉。
リディアは鞄から、研究室で写してきた北の一行の写しを出した。冊子の横に並べる。
冒頭には次とも後とも読める字。終わり近くには人を指す字に似た字。
古い書き言葉では頼みごとを書く時、相手を指す語を最後の方に置く。古い手紙の写しを読んだ時に、何度も見た形だった。時を示す語が先に来て、頼む動詞が続き、頼まれる相手が終わりの方に来る。
次に、覚えていて、と、誰かに。
リディアはペンを置いた。
似ているのは、並び方だけだった。欠けた字は欠けたままで、彼の言葉を当てはめたわけではない。当てはめてはいけない、とも思った。
それでも、手が少し冷たくなった。
アレクシスが、二枚の紙を見比べているこちらの顔を見ていた。
「何か、見つけたのか」
「まだ、分かりません」
リディアは写しの端を指で押さえた。
彼の始まりより前を、遺跡は記録しているかもしれない。




