第六十五話 自分から求婚した人
二度目の採録は、最初の日から三日後の昼の鐘のあとに始まった。
書斎の窓際の卓に、罫だけの冊子を開く。前の頁には病の冬と研究棟の事故と、冷めた茶の行が並んでいた。
その日のアレクシスは、話し出すまでに少し時間がかかった。
「一つ、話しておきたいことがある。聞いて、いい気はしないかもしれない」
「どうぞ。止めたければ、止めます」
アレクシスは膝の上で手を組んだ。
「ある人生で、君から求婚された」
リディアのペンが止まった。
「院の中庭だった。俺は警備の打ち合わせの帰りで、門の方へ歩いていた。君は書類の束を抱えたまま、後ろから俺を呼び止めた。前置きはなかった。結婚してください、と言った」
「……私が」
「君がだ」
アレクシスの声は淡々としていた。
「理由も言った。あなたは黙っているけれど、嘘はつかない人だから、と。書類を落としそうになっていたので、俺が半分持った。返事は三日待ってくれと言った。三日後に、受けた」
「三日も、待たせたんですか」
「考えた。三日で足りるとは思わなかったが」
リディアはペンを持ったまま、しばらく黙っていた。
院の中庭。書類の束。知らない自分が、知っている場所に立っている。呼び止めたのは自分の声のはずなのに、どんな声だったのか、少しも浮かばなかった。
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「思い出せません」
リディアはようやく言った。
「それに、もし思い出せたとしても、それは私の気持ちではないと思います。その人がそう決めて、そう言った。それを、今の私が自分のこととして引き受けることはできません」
言ってから、言い方が硬すぎたかもしれないと思った。
アレクシスの顔を見た。表情はほとんど動いていなかった。
「今の、言い直します。冷たく聞こえたなら」
「直さなくていい」
アレクシスは首を振った。
「そのまま書いてくれ。俺が話したのは、あったことだ。君に同じ気持ちになってほしくて話したのではない」
リディアは少し迷ってから、冊子に書いた。
出来事、本人から彼への求婚。院の中庭。言葉は要旨。時期、不明。確かさ、場面は高い、時期は低い。
その下に、もう一行足した。今の本人の気持ちとは、別に扱う。
書き終えて、ペン先を見下ろした。
前の人生の十年、自分は待ってばかりいたと思っていた。けれど、どこかの人生の自分は、書類を抱えたまま中庭で人を呼び止めた。
少しだけ、誇らしかった。
「次へ進みます」
「頼む」
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採録は、日が傾き始める頃に終わった。
リディアは冊子を閉じて、窓の外を見た。公爵邸の庭に、落ち葉を集めた小山がいくつか並んでいる。庭師が掃いたあとの小道が、植え込みのあいだを白く通っていた。
「帰る前に、庭を一周してもいいですか」
アレクシスが顔を上げた。
「庭を」
「ずっと座っていたので。それに、前の人生で、あの庭は一人でしか歩いたことがありません」
アレクシスは手元の書類を見て、それを机の端に置いた。
「門と塀の内側は、今朝見回らせてある。行こう」
庭に出ると、風が少し冷たかった。玄関の脇で、ギルベルトが軽く頭を下げた。邸内なので付いては来ない。
アレクシスは迷わず右の小道へ向かった。植え込みの脇をまっすぐ抜けて、池の向こうの角へ出る道だ。
「そっちは、近道ですよね」
「池の角へ出る、いちばん短い道だ」
「散歩なんですから、急がなくていいです」
リディアは左の小道を指した。花壇の外側をゆるく回って、同じ池の角へ出る道。
アレクシスは一瞬、足を止めた。
「そちらも知っている」
「知っているなら、こっちにしましょう」
二人は左の小道を歩き出した。花壇はもう花が少なく、刈り込まれた株が並んでいるだけだった。それでも、植え込みの向こうに池の水面が見え隠れして、右の道より景色が開けていた。
「こっちの方が、ずっと長いですね」
「そうでもない」
「花壇を回る分、長いです」
「右の道は、植え込みの切れ目で一度折れる。歩数にすれば、大して変わらない」
「数えたことがあるんですか」
「ある」
リディアは思わず彼の顔を見た。アレクシスは前を向いたまま、真面目な顔をしていた。
「警備の配置を決める時に、数えた」
「それなら、どちらが長いんですか」
「左が、二十歩ほど長い」
「やっぱり長いじゃないですか」
「大して、と言った」
リディアは笑った。笑ってから、言い返す言葉を探したが、見つからなかった。二十歩は、確かに大したことはない。
池の角が近づいてきた。右の小道と左の小道が、そこで一つになる。
戻れば、玄関はすぐそこだった。馬車も、もう回してあるだろう。
リディアは角で足を止めた。
「もう一周、してもいいですか」
アレクシスがこちらを見た。
「今度は、あなたが道を選んでください」
アレクシスは少し黙って、それから池の向こうを指した。右の小道でも左の小道でもない、池の縁に沿って裏庭の方へ回る細い道だった。
「そちらは」
「いちばん長い」
リディアはもう一度笑った。
次の一周は、彼の選んだ道を並んで歩く。




