第六十四話 記録させて
封筒を受け取ってから四日が過ぎた。
その四日、リディアは書き直された紙を見て、帰り道を自分で選んだ。二通りのうち、初めの二日は広場を回る方。三日目と四日目は、見張りの立つ角を遠くに見ながら通る方。研究室に着いた時と伯爵邸に着いた時、ギルベルトは詰所へ使いを出した。出したあとで、出しましたと必ず言った。
五日目の昼の鐘のあと、リディアは公爵邸の書斎にいた。
窓際の二脚の椅子のあいだに、小さな卓が一つ足してあった。リディアはそこに新しい冊子を置いた。院の購買で買った、罫だけの冊子だった。
「あなたの記憶を、記録させてください」
アレクシスは冊子を見た。
「調べるためか」
「それもあります。でも、それだけではありません。あなたの中にしかないものを、あなたの中だけに置いておくのは、たぶんよくないと思うんです」
リディアは最初の頁を開いて、線を引いた。三つの欄。
「どの人生が何番目だったか、あなたにも分からないと言いました。だから、順番では並べません。出来事、推定の時期、確かさ。この三つに分けます。時期は、私の年でも、季節でも、分かる範囲で。確かさは、高い、中くらい、低い、の三つで。これは、あなたがどれくらい確かだと思うかです。私が確かめた結果ではありません。それに、一行全部ではなくて、どこが確かなのかを分けて書きます」
「研究の記録と同じ形だな」
「同じ形にしたかったんです。分からないところを、分からないまま残せるので」
リディアは顔を上げた。
「それから、話したくないところでは止めてください。止めたら、そこに印をつけて先へ進みます。あとで続きを聞くかどうかは、また二人で決めます」
アレクシスはしばらく冊子を見ていた。
「分かった」
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書き始める前に、アレクシスが手を伸ばした。
リディアの鞄の口から、調べの冊子の角が見えていた。彼はそれを指して言った。
「あの夜、君が書いた欄がある。未回答の」
リディアは調べの冊子を出して、その頁を開いた。未回答。戻る仕組み。覚えている理由。近さと死期。
「仕組みは、分からない。今も分からない。これは本当だ」
アレクシスは頁から目を上げた。
「だが、一つだけ、知っていて言わなかったことがある」
リディアはペンを置いた。
「君を失うたびに、俺は、もう一度やり直すことを選んだ」
書斎の中が、急に静かになった気がした。
「勝手に戻されたのではない。毎回、俺が選んだ」
彼は膝の上で手を組んだ。
「君が死んで、それを受け入れられなかった。もう一度やり直す、と決めた。願ったというより、決めた。気づくと、同じ朝に戻っていた。毎回、そうだった」
「どうして、決めただけで戻るんですか」
「それは、分からない。なぜそれで戻るのか、何が戻しているのか。だが、自分が決めたことは知っていた。資料が読み解かれるのを待たずに、言っておくべきだった」
「なぜ、選んだんですか」
声が少し掠れた。
「もう一度、君に生きてほしかった」
リディアは彼を見た。
驚いていた。何百回、と聞いた夜よりも。あの時は、何かに巻き込まれた人の話だと思っていた。この人も自分と同じように、戻されてきたのだと。
違った。この人は、自分で戻ってきた。何百回も。
胸の奥で、別のものが熱くなった。
「それなら、あの十年も、あなたが選んだやり直しの一つだったんですね」
「そうだ」
「選んで戻ってきて、それで、私を一人にしたんですね」
アレクシスの答えは変わらなかった。
「そうだ」
リディアは膝の上で手を握った。怒っている、と自分で分かった。隠すつもりもなかった。
「何百回、助けようとしてくれたことは、ありがたいと思います。本当に。でも、それと、あの十年に私が一人だったことは、差し引きできません。救った数が多くても、あの時の私の分は減りません」
「差し引くつもりはない」
アレクシスは言った。
「許してくれとも言わない。言われたことは、そのまま受け取る」
リディアは長く息を吐いた。それから、調べの冊子の未回答の欄に、線を一本引いて分けた。
上に、未解明。戻る仕組み。覚えている理由。
下に、本人が知っていて話していなかったこと。毎回、本人が選んでやり直した。
近さと死期の行は、未回答のまま残した。
リディアはペンを置いて、しばらく窓の外を見た。
今日はここまでにします、と言えば、彼はきっと頷く。けれど、帰れば未回答の欄が増えるだけだった。怒ったままでも、続けることはできる。
「続けます。今日の分は、今日のうちに」
アレクシスは頷いた。
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それから一刻ほど、二人で新しい冊子を埋めた。
病の冬。起きたことの確かさは、高い。時期は二十を過ぎた頃の冬だと彼は言い、そこの確かさは中くらいだと言い足した。何度あったかは、低い。研究棟の事故。確かさ、中くらい。時期、不明。
途中で一度、アレクシスが黙った。リディアは何も聞かず、欄の端に小さな印をつけて、次の行へ進んだ。
「私の方も、書きます」
リディアは頁の後ろ半分を開いた。
「前の十年のことです。私が覚えている方の。あなたの記憶と並べたら、どれが一つ前の人生だったか、分かるかもしれません」
アレクシスが少し驚いた顔をした。
「いいのか」
「私の記憶も、私の中だけに置いておくより、いいと思うので」
書斎の中で、ペンの音だけがしばらく続いた。
日が少し傾いた頃、アレクシスが言った。
「一つ、書いてもいいか。死んだ時の話ではない」
「どうぞ」
「どこかの人生で、どこかの家の居間だった。君が古い術式の話を始めて、止まらなくなった。君は自分の茶を一口も飲まないまま、冷ました。淹れ直すと言ったら、まだ途中だと言われた」
リディアはペンを持ったまま、動けなくなった。
研究室で、北の資料を並べた日。ほら、と言って顎を上げた自分。説明の続きを忘れて、頁を一枚戻した自分。
似ている、と思った。会ったこともない自分なのに。
ペン先が、紙の上で一度止まった。その人の話を自分の冊子に書く。少しだけ迷って、それでも書くことにした。
出来事、術式の説明に夢中で、茶を冷ました。淹れ直しを断った。時期、不明。
「確かさは」
アレクシスは少し考えてから、言った。
「茶が冷めていくのを見ていたことは、高い。言葉は、要旨だけだ。声は思い出せない」
リディアはそのとおりに書き分けた。
その一行を見下ろした。冊子のほかの行は、ほとんどが病と事故と、終わり方の記録だった。その中に一つだけ、冷めた茶の行がある。
あの十年のことをまだ許してはいない。今日聞いたことも、すぐには整理できない。それでも、この行を書いたのは自分だった。




