第六十三話 思い出せない声
夜の鐘が鳴ってから、ずいぶん経っていた。
書斎の灯りは机の上の一つだけだった。油が半分ほどに減っている。アレクシスは朝に署名した指示書の写しを前に置いたまま、ペンを持っていなかった。
一行に一つ。彼女の言ったことを、自分の字で並べた紙。
最後の行をもう一度読んだ。この指示の変更は、本人との再協議を経ること。
自分で書いた字だった。
目を閉じると、別のものが浮かんだ。
熱の引かない額。寝台の脇の水差しの、減らない水。窓の外で、雪が降っていた。
それが消えないうちに、焦げた匂いがした。研究棟の廊下。割れた硝子。床に広がった青白い光の中に、外套の裾だけが見えた。
それから、水の音。甲板の板が傾いて、手すりを掴んだ指が滑った。
どれが何度目の人生だったか、順番がつかなかった。病の冬は一度ではなかった。研究棟の事故も、たぶん二度か三度。船は一度だけだったと思う。思うだけで、確かめる方法はない。
どの時も、彼は代わろうとした。熱が移るなら移れと、寝台の傍を離れなかった。光の中へ踏み込もうとした。傾いた甲板で、彼女の方へ手を伸ばした。
自分の命と引き換えにできるなら、それでいいと決めた冬もあった。手立てを探し、整えかけた。
どの時も、間に合わなかった。
彼が何かをする前に、彼女の方が先に息を止めた。
アレクシスは目を開けた。灯りが少し揺れていた。
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思い出そうとしたのは、別のことだった。
どこかの人生で、結婚して最初の年に、彼女が言った言葉がある。冬の夕方だった、と思う。食堂だったか、廊下だったか。彼女が何か言って、自分が何か答えた。その時、彼女は笑った。
笑った顔は覚えている。
言葉が、出てこなかった。
何を言ったのか。どんな声だったのか。何度たどっても、その手前で途切れる。その先にあるはずの声の代わりに、熱の額が出てくる。光の中の外套が出てくる。
死んだ時のことは、息の数まで覚えているのに。
ペンを取って、紙の端に書きかけた。冬。食堂。笑った。
そこで止まった。三つの言葉のどれも、本当にその人生のものかどうか分からなかった。
扉を叩く音がした。
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「団長。まだ起きてましたか」
ローランだった。外套を腕にかけている。詰所からの戻りらしい。
「路地の件の報告です。残りの柵二か所、今夜から見張りをつけました。焼き印は、普請方の古い型を写したものらしいです。どこで写したかは、明日」
「分かった」
ローランは報告書を机に置いて、灯りの油を見た。それから、アレクシスの顔を見た。
「路地の夜から、ほとんど寝てないでしょう」
アレクシスは答えなかった。
「団長が倒れたら、エルフォード嬢の護衛の割り振りは誰が見るんですか」
「お前が見る」
「見ますよ。だから、明日の朝の巡回の確認と、午前の会議は俺が受けます。団長は昼まで寝てください」
いつもなら断った。
断る言葉を探して、アレクシスは指示書の写しに目を落とした。危険の情報は、本人にも渡すこと。朝に彼女が言ったことを自分が書いた。
その情報だけは、今夜のうちに書き直すつもりでいた。一枚で済む。済めば、起きている理由はない。寝ていない頭で書いた紙をこの先も彼女に渡し続けるわけにはいかなかった。
「午前だけ頼む」
ローランが少し目を丸くした。
「……はい。引き継ぎ、書いてください。短くていいので」
アレクシスは引き継ぎを三行で書いた。ローランはそれを受け取って、扉の前で一度振り返った。
「団長。今日の指示書、俺はいいと思いました」
扉が閉まった。
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ローランの報告書を読んだ。残りの二か所。見張り。古い型の写し。
読み終えた時、手が先に動いていた。
新しい用紙を引き寄せ、騎士団の紋の下に書き出していた。護衛対象。祭の終わるまで院と伯爵邸の往復以外の外出を――
ペンを止めた。
書きかけの一行を見た。前の指示書と同じ形だった。彼女の知らないところで、彼女の行き先を決める形。
不安だった。残りの柵は、どちらも彼女の帰り道の近くにある。目地に、まだ線はない。けれど、線は一晩で刻める。
止めたかった。何百回も、そうしてきた。止めて、遠ざけて、それでも間に合わなかった。
それでも、最後の行がある。この指示の変更は、本人との再協議を経ること。
署名は、自分の手で入れた。
アレクシスは書きかけの用紙を二つに折り、机の端に寄せた。捨てはしなかった。書きたくなったことを、忘れないために。
別の用紙を取った。
朝に彼女へ渡した紙には、二か所の柵の位置と、まだ線がないことしか書いていなかった。それだけでは彼女が帰り道を選ぶ時に使えない。
書き直した。二か所の柵が立つ通りの名と、角の目印。見張りがついた時刻と、見張りの立つ位置。柵を避けて伯爵邸へ帰る道筋を二通り。どちらも巡回の合図が届く道だと書き添えた。線が刻まれたと分かった時にはギルベルトを通してすぐに知らせる、とも。
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灯りの油が、さらに減っていた。
アレクシスは書き直した紙を封筒に入れ、朝いちばんにギルベルトへ渡すよう、家令への書き付けを添えた。
それから、もう一度だけ思い出そうとした。
最初の年の、冬の夕方。彼女が笑う前に言った言葉。
出てこなかった。
代わりに、朝の客間の声が浮かんだ。私の知らないところで、私のことを決めないでください。少し硬くて、それでもまっすぐな声。
あれは今の彼女の声だった。いつの人生の誰のものでもない。今日この屋敷で、自分に向けられた声だ。
前の声は、もう取り戻せないのかもしれない。何百回分の彼女のうち、いちばん覚えていたいところから先に薄れていく。
話すなら、思い出の中の誰かではなく、明日の朝この封筒を開ける人とだった。
アレクシスは灯りを消した。
暗くなった書斎で、目を閉じた。熱の額が、また浮かびかけた。




