第六十一話 奪った十年
昼の鐘のあと、家令がリディアを書斎へ案内した。
前の人生でも、この部屋に入ったことはある。家令に頼まれて、主のいない机に届いた書類を置きに来た。けれど、招かれて座り、この人と向かい合って話したことは一度もなかった。壁の棚には騎士団の綴りが並び、窓際の机には書きかけの書類が重ねてある。
アレクシスは机の前ではなく、窓の脇の二脚の椅子の片方に座っていた。もう片方を目で示す。リディアが座ると、家令が扉を閉めて出ていった。
「昨夜、全部は話さなかった」
アレクシスが言った。
「十年のうち、どこまでが必要だったことで、どこからが俺が足したことか。分けて話したい。言い訳にするつもりはない。分けないと、全部が仕方なかったことに聞こえるからだ」
リディアは膝の上で手を重ねた。
「聞きます」
「食事を別の盆にしたのは、警備の決まりだ。あの頃の屋敷は客が多かった。夜中に出動があったから、詰所に近い棟で寝た。それも決まりの内だ。祭の前に北の砦へ出たのも、命令があった年はある」
彼はそこで一度止まった。
「だが、毎年ではない。誕生日のたびに北へ出たのは、俺が自分で予定を入れたからだ。客のない日も食堂へ行かなかった。廊下で君とすれ違っても、声をかけなかった。話しかけられれば、短く答えて離れた。そうしていれば、君が長く生きると思った」
「別の盆が必要な日と」
リディアは言った。
「十年、夫婦として何も話さなかったことは、別ですね」
「別だ」
アレクシスは目を逸らさなかった。
「別の盆は、必要な日があった。十年、必要な返事しかしなかったのは、必要ではなかった。俺がそうした」
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リディアは窓の外を見た。
公爵邸の庭。冬には枯れ枝ばかりになる庭だ。前の人生で、あの庭を何度一人で歩いただろう。
「私の側から、話していいですか」
「頼む」
リディアは窓から目を戻した。
「朝、食堂へ下りると、向かいの席にも食器が並べてありました。最初の年は、あなたが遅れて来るのだと思っていました。誰も触らない食器が、毎朝そのまま下げられていきました。冬になる頃には、そう思わなくなりました。三年目に、並べないでほしいと家令に頼みました。夕食も同じでした。給仕の人たちは、誰も何も言いませんでした。言わないように、気を遣ってくれていたんだと思います」
声は落ち着いていた。自分でも意外なほどだった。
「誕生日は、毎年、家令が北の砦だと教えてくれました。父の菓子と、侍女たちの花と、名前のない花が届きました。それを自分の部屋の窓辺に並べて、一人で数えました。三年目くらいから、数えるのをやめました」
アレクシスの手が、椅子の肘掛けの上で動かなくなった。
「寝室は、最初の夜から別でした。そういう家なのだと思いました。夜会では、あなたは会場の反対側にいました。私が誰かと話していても、あなたは来ませんでした。私が帰ると言っても、頷くだけでした」
リディアはそこで言葉を探した。
「一番つらかったのは、何がいけないのか分からないことでした。私が何かしたのだと思っていました。だから、気をつけました。話し方も、着るものも、黙るところも。十年、気をつけ続けました。それでも、何も変わりませんでした」
喉の奥が詰まった。
「理由は、私の中にはなかったんですね。あなたの中にあった」
アレクシスは何も言わなかった。
「愛されていたのかもしれない、と昨夜思いました。それは、少しだけ嬉しかったです。でも、だからといって、あの十年の私が一人だったことは変わりません。今、分かっても、あの時の私には、何も届いていませんでした」
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どちらも、しばらく口を開かなかった。
アレクシスは椅子から立ち上がらなかった。膝の上で両手を組み、それから解いた。
「すまなかった」
短い言葉だった。
「君を一人にした。理由を言わずに、十年。君が自分を責めるような暮らしをさせた。それは、俺がしたことだ」
リディアは彼を見た。
彼はそれ以上、何も足さなかった。黙って、こちらの言葉を待っていた。
リディアは目を伏せた。
許します、と言えば、この部屋の空気は楽になる。たぶん彼も、少しは楽になる。けれど、それを今言えば、嘘になる気がした。
「今すぐ、許すとは言えません」
リディアは顔を上げた。
「言いたくないのではなくて、まだ言えないんです。十年分を、一日で終わらせることはできません」
「分かっている」
「謝ってくださったことは、受け取ります。でも、これからのことには、条件をつけさせてください。前と同じことをしないと、言葉ではなく、やり方で分かるようにしてほしいんです」
アレクシスは頷いた。
「どういうやり方なら、分かる」
リディアは膝の上の手を握った。
すぐには答えられなかった。前の人生の十年、何をしてほしいのかを誰にも聞かれなかった。自分からも言えなかった。十年分の傷のあとに何を置けばいいのかは、まだ言葉になっていなかった。
それでも、一つだけは分かっていた。
「私の知らないところで、私のことを決めないでください。それが、最初の条件です」
アレクシスは長いあいだ、リディアの顔を見ていた。それから、机の方へ目をやった。重ねた書類のいちばん上に、騎士団の紋の入った用紙があった。
謝罪のあと、具体的に何を変えられるのか。




