第六十話 何百回の私
客用の寝室の窓から、朝の鐘が聞こえた。
ほとんど眠れなかった。目を閉じると、知らない自分の顔が浮かびかけて、浮かびきらずに消えた。三年目の冬に死んだ自分。街の路地で光に巻かれた自分。同じ食卓で彼と向かい合っていた自分。
客間に下りると、アレクシスはもう卓についていた。家令が茶を運んでくる。色の薄い茶だった。
リディアは杯を受け取ったが、口はつけなかった。
「一つ、聞かせてください。昨夜の続きではありません。今のことです」
アレクシスは杯を置いた。
「あなたは、何百回も私を見てきた。病で死んだ私も、路地で捕まった私も、あなたと同じ食卓についた私も。その人たちは、私と同じ顔をしているんでしょう」
声が少しだけ硬くなった。
「今、あなたが見ているのは、誰ですか。ここに座っている私ですか。それとも、前の誰かですか」
アレクシスはすぐには答えなかった。
窓の外で、庭師が落ち葉を掃く音がした。
「分からなくなる時がある」
低い声だった。
「君が笑った時。君が何か言いかけて、やめた時。前にも見た顔だと思う。どの君だったか、分からなくなる。今の君に向かって、前の君への返事をしそうになる」
リディアは杯を持つ手に力を入れた。
「だから、聞くようにしている」
アレクシスは卓の上の茶器を見た。
「茶のことも、そうだ。濃い茶を好んだ君もいた。甘い菓子を嫌った君もいた。覚えている好みが、今の君のものかどうか分からない。だから、舞踏会で聞いた。何が飲みたいかと」
リディアは手元の杯を見下ろした。煎りの浅い、色の薄い茶。
前の人生の十年、彼は一度も聞かなかった。今世の彼は聞いた。聞いてから、選んだ。
「区別が崩れる時があるのは、認める。だが、今の君のことは、今の君に聞く。そうしているつもりだ」
「つもり、ですか」
「つもりだ。できていない時は、言ってくれ」
リディアはしばらく黙っていた。それから、茶を一口飲んだ。
安心したわけではなかった。何百回の自分が、今もこの人の目の奥にいる。それは変わらない。けれど、この茶は今の自分に聞いて選ばれたものだった。
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玄関の方が騒がしくなったのは、その少しあとだった。
扉が開いて、家令が来客を告げる前に、兄が入ってきた。外套の裾が乱れている。伯爵邸からの使いを受けて、そのまま来たのだろう。
「リディア」
兄はまっすぐこちらへ来て、妹の肩に手を置いた。顔を見て、手を見て、それからやっと息を吐いた。
「怪我は」
「ありません。指先が少し痺れただけです」
「……そうか。昨夜は院に詰めていた。使いの知らせを見たのが、明け方だった」
兄はアレクシスに短く頭を下げた。礼を言う声は丁寧だったが、目はアレクシスを見ていなかった。
リディアは兄が椅子に座るのを待ってから、口を開いた。
「兄様。二つ、伺いたいことがあります」
兄はこちらを見た。
「十日ほど前、研究室に王家の査察官が来ました。ハルトという人です。私とニコだけを測りました。魔力量と言いましたが、そうは思えない測り方でした。それから、昨日の路地です。届けのない柵で、私の帰り道が曲げられていました。床の線は、私にだけ伸びてきました」
兄の顔から、少しずつ色が引いていった。
「兄様は、どちらかを知っていましたか」
「査察があることは、聞いていた」
兄はゆっくり言った。
「院の各室の点検だと。お前の名前が入っているとは、聞いていなかった。路地のことは」
兄は一度言葉を切った。
「知らなかった。本当だ。昨日あんなことが起きると知っていたら、私はお前を外へ出さなかった」
本当に驚いているように見えた。声が震えていた。
信じたい、と思った。けれど、昨日のことに驚いたのと、前から何も知らなかったのとは、同じではない。
「査察は、零号室の仕事ですか」
兄の目が、ほんのわずかに動いた。
「それは、私の仕事の話だ。お前に話せることと、話せないことがある」
「私が測られて、私が捕まりかけたんです」
「分かっている」
兄は膝の上で手を組んだ。
「だから、調べる。私の方で。お前は、しばらく研究室と家の往復だけにしなさい。それが一番いい」
リディアは答えなかった。兄はそれを了承と取ったのか、立ち上がって、アレクシスにもう一度だけ頭を下げた。
「妹を、ありがとうございました。迎えの馬車を表に回してあります。昼過ぎに、もう一度来させます」
扉が閉まった。
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兄の足音が廊下の向こうへ消えてから、アレクシスが口を開いた。
「君の兄のことを、一つ話しておく」
リディアは扉から目を戻した。
「前の人生で、俺が知ったことだ。いつの人生だったかは、はっきりしない。何度かあったと思う」
彼は少し間を置いた。
「君の兄は、零号室の副室長だった」
リディアは息を止めた。
副室長。零号室。古い記録を預かっているだけだと、兄は言った。仕事で関わることがある、と。
「今もそうかは、俺には確かめられない。今世では、騎士団の立場で院の人事を調べたことはない」
リディアは鞄から冊子を出した。
兄の頁を開く。北の写し、管理印、零号室から借用。その下に書いた。
本人以外の証言。兄、零号室の副室長。前の人生でアレクシスが知ったこと。時期、不明。今世の裏付け、なし。
ペンを止めて、顔を上げた。
「今世の裏付けがほしいです。院の職員の名簿でも、王家の任命の記録でも。証言だけで、兄を疑いたくありません。疑わずにいるのも、証言だけではできません」
「俺が騎士団の名前で調べれば、まず君の兄に伝わる。王女殿下を通しても、伝わらないとは言い切れない」
「殿下に、自分で相談します。殿下がもうお持ちの記録で確かめられるかどうか。どこかへ照会を出すなら、その前に私に知らせてほしいと、お願いしてみます」
アレクシスは頷いた。
リディアは冊子を閉じた。
兄は、知らなかったと言った。信じたいと思う。けれど、零号室のことには触れなかった。アレクシスは、兄の役職を何百回の中のどこかで知っていて、今朝まで言わなかった。
守ると言う二人とも、自分に話していないことがある。




