第五十九話 数えられなくなった
路地の封鎖を詰所に引き継いで、ローランが戻ってきた。
家令に何か短く言うと、廊下の突き当たりの階段の脇まで歩いていき、そこで背を向けて立った。扉を閉める前に、リディアはその位置を見た。客間の扉からは、廊下の端から端までの距離があった。
客間には、灯りと、冊子と、二人だけが残った。
リディアは冊子の頁を戻した。今夜の行から、前へ。
「並べさせてください。あなたを責めるためではありません。私が置いている前提が、合っているかどうかを確かめたいんです」
アレクシスは頷いた。
「舞踏会の夜。あなたは、私が回る前に左足を引く癖を待ちました。前の人生の十年、あなたとその癖が分かるほど踊ったことはありません。二度の回転で覚えた、とあなたは言いました。それは、成り立ちます」
リディアは次の行を指でたどった。
「リディ、という呼び方。母が使っていた呼び方です。前の人生で、あなたから聞いたことは一度もありません。これも、どこかで聞いたのかもしれない。それだけでは、何も言えません」
アレクシスは黙っていた。
「三年目の冬。あなたは、私が熱を出して、春になる前に、と言って止めました」
リディアは冊子から顔を上げた。
「あれは、春になる前に私が死んだ、という意味ですか」
アレクシスは目を閉じた。開けるまでに、少し時間がかかった。
「……そうだ」
リディアは息を吸って、続けた。
「私は三年目を生き延びて、十年目の建国祭で死にました」
声が少しだけ震えた。
「それから、今夜。街の中で、私が回収の型に捕まって、あなたが引き出した。私の十年には、そんな日はありません」
リディアは彼の目を見たまま言った。
「あなたが覚えている前の人生が一つだけなら、三年目の冬に私が死んだことと、私が十年目まで生きたことは、両方は本当になりません。どちらかが間違っているか、あなたの覚えている前の人生が、私の覚えている十年とは別のものか」
アレクシスは、リディアが冊子に書いた行を見ていた。
「私は、一つだけだと思っていました。あなたも私も、同じ十年から戻ってきたのだと。その前提が、合っているのかを聞いています」
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長い沈黙だった。
廊下の向こうで、ローランが一度だけ咳払いをした。
「一つではない」
アレクシスが言った。
低く、掠れた声だった。
「何百回か。正確な数は、分からない。数えていた頃もあった。途中から、数えられなくなった」
リディアは冊子の上に手を置いたまま、動けなかった。
何百回。
「君の十年は、そのうちの一つだ。いちばん近い一つ。雨の夜も、建国祭も、君が覚えているとおりに覚えている。だが、そこだけではない。三年目の冬に君が病で死んだ人生もあった。街の中で、あの型に捕まった人生もあった」
「全部、覚えているんですか」
「覚えていない」
アレクシスは首を振った。
「普通のことは、崩れている。どの年に何があったか。誰が何を言ったか。混ざって、順番に並べられない。君の十年でさえ、ほかの人生と重なって見えるところがある。だから、混ざっている、と言った」
彼は卓の上の自分の手を見た。
「だが、君が死ぬところだけは崩れない。思い出すのとは違う。見せられる。眠っている時も、目を開けている時も、同じ場面が同じ順で戻ってくる。こちらが見たいかどうかは関係ない」
彼は一度、言葉を切った。
「戻す仕組みが、そこだけを残しているのだと思う。それ以上は、俺にも分からない」
リディアは口を開きかけて、閉じた。
建国祭の広場。足元の光。届かない手。自分が覚えている死は一つだけだ。彼は、それを何百回見たのか。
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「近くにいた人生も、あった」
アレクシスは言った。
「婚約して、結婚して、同じ食卓についた人生も」
リディアは、その食卓を思い浮かべようとした。向かいの席に彼が座り、手前の席に自分が座っている。けれど、そこに座っている自分の顔が浮かばなかった。自分の知らない自分が、彼と同じ皿の湯気を見ていた。
「だが、近くにいた人生ほど、君は早く死んだ。そう見えた。だから、離れた。食卓を分けた。部屋を分けた。顔を見ないようにした。離れていれば、少しでも長く生きると思った」
リディアの指が、冊子の端を握った。
食卓の空席。十年、向かいの椅子は空いていた。
それが、そういう理由だったのか。
怒りとも、悲しみともつかないものが喉元までせり上がってきた。十年。向かいの空いた椅子を見ながら、何度、自分が何をしたのかと考えたか。理由はずっと、自分の外にあった。それを今、一晩で渡されている。
リディアは唇を噛んで、それを飲み込んだ。飲み込むまでに、長くかかった。
それから、ペンを取った。彼の言ったことを書き、その下に線を一本引いた。線の上と下に、同じことは書かなかった。
「あなたが私の死ぬところを何度も見たことは、書きます。でも、近くにいたから私が早く死んだ、というのは、あなたの解釈です。私はまだ、それを事実としては書けません」
アレクシスは長いあいだ、その行を見ていた。
「……そうか」
「それから」
リディアはペンを握り直した。
「戻る仕組みのことも、知りたいです。なぜ戻るのか。誰が、何が戻しているのか。どうして、あなたは覚えていて」
アレクシスの顔から、血の気が引いていくのが見えた。卓の上の手が震えていた。研究室で指が触れた時と同じ震えだった。
リディアはペンを止めた。
自分の手も、冷たくなっていた。路地の光。何百回。近くにいた人生ほど。一晩で受け取るには、多すぎた。
「今夜は、ここまでにします」
リディアは冊子に書いた。未回答。戻る仕組み。覚えている理由。近さと死期。
「次に、必ず聞きます」
「分かった」
アレクシスは頷いた。それから、廊下の方へ声をかけた。ローランの足音が近づき、家令が客用の寝室の灯りを入れに行った。
リディアは冊子を閉じた。
表紙の上に手を置いたまま、しばらく動けなかった。
前の人生の十年を、ずっと二人の十年だと思っていた。同じ食卓の空席を、同じ雨の夜を、同じ建国祭を、二人が別々の側から見ていたのだと。
彼が覚えている自分は、一人ではなかった。




