第五十八話 線のない場所
前の円と、後ろの弧。そのあいだの、目地に線のない数歩分の石の上に、リディアとギルベルトは立っていた。
光は両側から少しずつ這ってくる。リディアが動かなければ遅い。けれど、止まりはしない。
ギルベルトがもう一度、笛を吹いた。今度はすぐ近くで返事があった。
路地の入口の側から、駆けてくる足音がした。
灯りが二つ。先に飛び込んできたのはローランだった。その後ろに、アレクシスがいた。
「隣の辻を回ってたら、笛が来ました」
ローランが息を切らしながら言った。祭の準備の巡回に、二人とも出ていたらしい。
アレクシスは柵を越え、退路側の弧の外で止まった。光る線を見て、それからリディアを見た。一度だけ、全身を確かめるように。
「怪我は」
「ありません。まだ踏んでいません。光は私にだけ伸びてきます。物とギルベルトさんには伸びません」
アレクシスは頷いた。視線が足元の線へ落ちた。
弧の向こうの、外の円。内へ向かう短い線。彼はしゃがんで灯りを地面すれすれに寄せ、円の縁を端から端まで目で追った。
「前に見た型では、外の円の、この辺りで線が一度切れていた」
指が、円の右手の一点を差した。目地が二本交わるところだった。
「切れたところを、別の線で繋ぎ直してあった。ここも同じだとは言えない。刻んだのは今の誰かだ」
リディアは彼の指の先を見た。
それから、自分の足元へ伸びてきている光の筋を逆にたどった。
筋は外の円から出ている。けれど円のどこからでもない。円の右手の、彼が指したあたりから一度内へ入り、短い線を一本通って、そこから自分の方へ折れていた。
振り返って、後ろの弧の光もたどった。弧は円とは離れて見えた。けれど目地の線を追うと、弧の端は塀際を回って円の右手へ戻り、同じ短い線の手前で一つになっていた。
前の光も、後ろの光も、同じ一本から出ている。
「そこです。あなたが指したところの、内側の短い線。そこから光が出ています。私の動きを拾っているのは、たぶんそこ」
アレクシスは何も言わずに、その線から自分の灯りをわずかに離した。
試験の皿を思い出した。描いた線に指先を当て、魔力を添えて灯し、絞り、止める。魔力量は平凡だ。けれど、流れを細く扱うことなら、今世で何度も練習した。
それに、研究室の皿で見たばかりだった。閉じる項のない線に別の流れを入れると、形が滲んだ。あの短い線には、閉じる線がない。
「その短い線の、私に近い方の端。そこに指先で魔力を当てます。逆向きに、ほんの少しだけ。流れが乱れれば、少しのあいだ、私を拾えなくなるかもしれません」
「かもしれない、か」
「かもしれない、です。乱れるのは、その一節だけです。円全体は止まりません」
アレクシスはリディアの顔を見た。それから、光の筋の先を見た。
「やってくれ。乱れたら、俺が君を運ぶ。ギルベルト、弧を跨いでこちらへ出ろ。踏むな。ローランと二人で、俺が戻るところを空けておけ」
ギルベルトは光る弧を大きく跨ぎ、ローランの隣へ出た。光はギルベルトを追わなかった。
アレクシスが入れ替わりに弧を跨ぎ、リディアのすぐ後ろに立った。
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リディアは膝をついた。
短い線の端は、自分のつま先から腕を伸ばせば届くところにあった。まだ光っていない側の端。指先を溝の縁に当てる。
石が冷たかった。
光の流れが、指先の下を通っていくのが分かった。自分の方へ。細く、規則正しく。
リディアは魔力をほんの少しだけ添えた。流れと逆向きに。皿の時の半分よりも、もっと弱く。
指先が痺れた。
光の筋が、揺れた。
つま先の手前まで来ていた光が、一度ふっと薄くなった。伸びるのをやめ、その場で瞬いている。
「止まった」
ギルベルトが言った。
「後ろもだ。弧の光が鈍った」
アレクシスの声がすぐ後ろでした。円の線は光ったままだった。止まったのは、こちらへ伸びてくる筋だけだった。
アレクシスが動いた。
膝をついたままのリディアの背と膝の裏に腕が回り、身体が浮いた。退路側の弧は、光ったまま揺れていた。彼はその上を踏まずに大きく跨ぎ、ローランとギルベルトのあいだへ降りた。
弧の外の二歩分も新しい敷石で、その先から古い石に変わる。アレクシスはそこまで止まらずに歩いた。
背後で、光の筋が戻ってきた。筋は新しい敷石の上を這い、古い石との境で止まった。その先へは一筋も出てこなかった。
アレクシスはさらに数歩、柵の外まで下がってから、リディアを下ろした。足が地面に着くまで、腕を離さなかった。
「立てるか」
「立てます」
指先がまだ痺れていた。リディアはその手をもう片方の手で握った。
アレクシスは路地を振り返った。
「ローラン。この路地の両側を塞げ。誰も入れるな。線には触るな。院の術式の担当と、騎士団の詰所に人をやれ。それから、入口の通行止めの柵。誰が立てたのか、張り替えの届けがどこから出ているのか、調べろ」
「承知。今夜のうちに当たります」
ローランはそれだけ言って、もう走り出していた。
光の消えかけた路地の敷石の上に、空の手提げが一つ、置き去りになっていた。
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伯爵邸の方が近かった。けれどアレクシスは、柵を立てた者が伯爵邸までの道筋を知っているかもしれないと言い、騎士団の警備がある公爵邸へ向かうことを勧めた。リディアは頷いた。
客間に通されると、家令が灯りを入れ、湯を張った盥と布を持ってきた。アレクシスは家令に、リディアの手を診るように言った。指先が赤くなっているだけで、ほかに傷はなかった。
「伯爵家へ使いを。無事であること。今、こちらにいること」
家令が下がると、アレクシスは扉の前に立ったまま、リディアを見た。
「送らせることもできる。帰りたければ、すぐに馬車を出す」
「帰りません」
リディアは盥から手を上げ、布で拭いた。
「今夜のうちに、話したいことがあります。あの型のことです。遅くなったら、こちらに泊めていただけますか」
アレクシスは少しのあいだ黙っていた。それから、扉を開けて家令を呼び戻し、伯爵家への二通目の使いを頼んだ。今夜は本人の希望でこちらに留まる。迎えはいつでも出す。
それから、卓の向かいに座った。
「あれは、前に見た型だ」
低い声だった。
「北の奥で見たものと、同じ組み方だ。それだけではない。前にも一度、君があの型に捕まったことがある。街の中で。足首まで線に巻かれていた。俺が着いた時には、もう光が膝まで上がっていた。線を切って、君を引き出した」
リディアは布を握ったまま、彼を見た。
前の人生の十年。街の中で、光る線に捕まったことなど一度もない。北の奥へ行ったこともない。彼に抱えられて運ばれたことも。
三年目の冬の熱と同じだった。彼は覚えている。自分は知らない。
「それは、いつですか」
アレクシスは答えなかった。卓の上で、左の手が一度握られ、開いた。
リディアは外套の内側の小鞄から冊子を出した。灯りが卓の端にあって、頁の半分が影になる。灯りの台を引き寄せようとすると、アレクシスが先に手を伸ばして、それを冊子の向こう側へ置き直した。
「そこだと、君の手の影が落ちる」
「……ありがとうございます」
灯りの位置一つで、頁がすっかり明るくなった。リディアは少しだけ笑った。彼の口元も、ほんのわずかに緩んだように見えた。
それから、冊子を開いた。
三年目の冬。病の結末。記憶の範囲。その下に、今夜の行を足す。街中で回収の型に捕まった自分。彼が引き出した。自分の記憶、該当なし。
ペンを止めて、彼の顔を見た。
その場所を、いつの人生で見たのか。




