第五十七話 帰り道の線
測定の写しを棚にしまってから五日後の夕方、リディアはミレイユと仕立屋の通りにいた。
祭の飾り紐を一緒に選ぶ約束だった。店の奥で布見本を広げ、ミレイユは三本、リディアは一本を選んだ。包みはまとめてミレイユの侍女が抱えた。
「似合うわよ、その色。祭の日に結んでるの、見たいわ」
「見せる人がいないわ」
「いるでしょう」
リディアは言い返そうとして、やめた。言い返せば、名前を出したことになる。ミレイユは分かっている顔で笑った。
ミレイユはそれ以上言わず、侯爵家の迎えの馬車に乗り込んだ。窓から手を振る。リディアも手を振り返した。馬車の角灯が通りの先の人波に紛れていく。
「伯爵邸までお送りします」
後ろからギルベルトが言った。
伯爵邸までは歩いても遠くない。リディアは空になった手提げを腕にかけ、ギルベルトと並んで歩き出した。冊子は手提げではなく、外套の内側に下げた小さな鞄に入れてある。
通りは祭の準備で賑やかだった。軒から軒へ飾り綱が渡され、職人が梯子の上で提げ灯りを吊るしている。広場の方から、子どもたちが祭の歌を合わせる声が切れ切れに聞こえた。
辻を二つ過ぎたところで、向こうから巡回の騎士が歩いてきた。ギルベルトが右手を軽く上げる。騎士も同じように手を上げ、すれ違っていった。
「今のは」
「合図です。祭の準備のあいだ、巡回は互いの合図が届く間隔で歩いています。こちらが笛を吹けば、さっきの者に届きます。さっきの者から、その先の組へ」
ギルベルトは胸の笛に指を触れた。
次の辻でも、その次の辻でも、騎士とすれ違った。そのたびにギルベルトは手を上げた。
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伯爵邸へ曲がるはずの角に、木の柵が立っていた。
柵に板が打ち付けてある。敷石の張り替えにつき通行止め。迂回はこちら。矢印が、細い路地を指していた。
ギルベルトが柵の前で足を止めた。
「張り替えの届けは、今日の巡回の予定表にはありませんでした」
ギルベルトは板の隅を灯りで照らした。王都の普請方の焼き印が押してある。祭の前は、急ぎの工事の届けが巡回の表に載るのが一日遅れることもある、とギルベルトは言った。
「この路地は、自分も何度か通っています。二十歩ほどで、次の通りに出ます」
両側を石の塀に挟まれた、人がすれ違える程度の幅。奥に次の通りの灯りが見える。長くはなかった。
「自分が前を歩きます。念のため、次の組には通ったと合図を送ります」
ギルベルトは路地の入口で、通りの先へ手を上げた。向こうの辻で、騎士が同じように手を上げた。
路地に入って十歩ほどで、足元の敷石が新しくなった。周りの古い石より色が白く、継ぎ目の目地もまだ乾ききっていない。張り替えたばかりの石だった。
リディアは足を止めた。
目地の溝に、線があった。
ただの目地ではなかった。石と石のあいだを縫うように、細い線が刻まれている。溝の縁が鋭く、欠けがない。北の遺跡の奥で光った、後から足された線と同じ、刻んだばかりの手触り。
線をたどる。路地の幅いっぱいに、円が二重になっていた。外の円から内へ、短い線が何本も向かっている。
公爵邸の客間で、アレクシスが紙の隅に描いた図。
回収の型。
「ギルベルトさん。止まってください」
ギルベルトがすぐに止まった。円の外の縁の、半歩手前だった。
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「足元の線、見えますか。目地に刻んである。巡回の紙に描いてあった形です」
ギルベルトは灯りを下げ、敷石を見た。顔色が変わった。
「戻ります」
リディアは一歩、後ろへ下がった。
その時、外の円の線が光った。
青白い光だった。北の奥で見たのと同じ色。光は線の上を滑るように走り、自分の方へ伸びてきた。リディアが下がった分だけ、円の縁から細い光の筋が這い出し、つま先の手前で止まった。
ギルベルトが笛を吹いた。高く短く、三度。路地の外の通りへ響いて、遠くで同じ笛が一度返った。
「下がります。自分の後ろへ」
ギルベルトがリディアの前に出て、入口の方へ促した。リディアはもう一歩下がり、振り返った。
さっき踏んで通ってきた新しい敷石の目地にも、線があった。
通る時には光っていなかった。外の円とは別の、細い弧が一本。自分たちの背後を、路地の幅いっぱいに横切るように刻んである。その弧の上を、今は同じ青白い光が走っていた。
前の円と、後ろの弧。そのあいだの数歩分だけ、目地に線のない石が残っていた。
「エルフォード様。自分が抱えて、弧を跨ぎます」
ギルベルトが腕を伸ばした。
「待ってください」
リディアは手を引いた。
「光は、私が動いた方へ伸びてきました。抱えられても、私が線の上を通ることに変わりはありません。跨いだ先で、あなたごと縛られるかもしれない。何に反応しているのかが分からないまま、跨ぐのは怖いです」
ギルベルトの手が宙で止まった。
リディアは息を整えた。逃げ道を作るためには、何が光を呼んでいるのかだけでも知らなければならない。
腕にかけた手提げを外した。中は空だ。飾り紐はミレイユの侍女が持って帰った。
手提げを、隣の敷石の上へそっと滑らせた。光の筋のすぐ脇へ。
光は手提げに見向きもしなかった。
ギルベルトが半歩、位置を変えた。光はギルベルトの足元にも伸びなかった。
物には伸びない。ギルベルトにも伸びない。自分にだけ、伸びてくる。
「この光は、私の近づき方を追っています」
声が思ったより落ち着いていた。
「円のどこかに、私の動きを拾っている入口があるはずです。円全体が何をするものなのかは、まだ分かりません。でも、追ってくる仕組みだけなら、どこかで乱せるかもしれない」
動かずにいても、光は止まらなかった。前の円からも、後ろの弧からも、這うように少しずつ近づいてくる。
線のない石は、もう三歩分しか残っていなかった。
退路の弧からも、同じ光が伸びてくる。




